
「自分はものを書けるんだ、と思いはじめるまでには、いろいろな人のはげましがありました。ひとりは、まだエストラ-ダにいたころ、学校に通う道のりに住んでいた、ミス・ロブ(Miss Rob)という婦人でした。彼女は、私が学校から家に帰る途中、いつもジュースを飲ませてくれて、何か物語を読んでくれました。」
コスタリカでは黒人、そして黒人と白人の混血のムラートの人たちを含めたアフロ系の人々が総人口の8パーセント近くを占めています。彼らの祖先の一部は、植民地時代に、奴隷としてアフリカから連れてこられました。でも大半は、十九世紀後半に鉄道を敷くためにジャマイカからやって来た、出かせぎ労働者たちの子孫です。今日も、鉄道工事の中心地だったカリブ海のリモン県には、アフロ系の人びと独特の言語や文化が生きています。
私が国連にいたころ、アフロ系の人々の生活の向上と人権の擁護を支援するために、彼ら独自の組織やリーダーたちと協力しました。そのひとりが、作家のクインス・ダンカン(Quince Duncan)でした。ダンカンさんは、コスタリカではじめてスペイン語で小説を書いたアフロ系の作家です。リモン県のアフロ系社会を描いた小説、コスタリカにおける黒人の歴史書、そしてごく最近は先住民の歴史にもとづいた短編など、多岐にわたる作品があります。
文章自体も多彩です。彼の小説は人間の日々の生活、性愛、憎悪などを生き生きと、そして抒情的に描写しています。これと対照的に、学術的な文章は、細かく厳密な分析を通じて、新たな事実を明らかにしていきます。ダンカンさんはまた、アフロ系の人びとの市民権運動の、長年にわたるリーダーでもあり、ソリス政権(2015-2018)のもとでは、アフロコミュニティー担当の大統領弁務官をつとめました。
ゆっくりした、穏やかな仕草と口調、そして明るい笑顔が印象的なひとです。
ダンカンさんは、コスタリカの歴史と密接に絡み合った彼の人生について、とても興味深い、時には驚くような逸話をいくつも話してくれました。切り捨ててしまうのはもったいないので、このインタビューは二回に分けて紹介したいと思います。
作家への道
私はリモン県のエストラーダという小さな町で祖父のジェームズ・ダンカンに育てられました。彼は熱心な読書家で、家には小さな図書室があったんです。14歳になったときに、図書室に入ることを許されて、そこにある本をはしから全部読んでいきました。歴史の本が多かったのですが、戦争についての本を読みながら架空の戦いを思い描いて書いていました。小説を書く興味はそのころから芽生えたんでしょうね。
でも自分はものを書けるんだ、と思いはじめるまでには、いろいろな人のはげましがありました。ひとりは、まだエストラ-ダにいたころ、学校に通う道のりに住んでいた、ミス・ロブ(Miss Rob)という婦人でした。彼女は、私が学校から家に帰る途中、いつもジュースを飲ませてくれて、何か物語を読んでくれました。そしてある日、「これから逆にしましょう」と言うんです。新しい本が届いたばかりなのに、メガネが割れてしまって読めないから、私がその本を家に持ち帰って読んで内容を話してくれ、と。それで今度は私が彼女にお話をしてあげることになったんです。そのあと何年もたってから、「あ、そういえばミス・ロブはメガネが割れたと言ったあとも、教会で聖書の朗読をしてた!」と気づいたんです(笑)。私が本を読むようしむけるための策略だったんですね。
学校の先生たちもはげましてくれました。まだエストラ-ダの学校に通っていたころ、サンチェス先生という女の先生が、生徒たちに作文を書かせたんです、スペイン語でね。それで私は「木」を題材に書きました。その作文を先生が国立コンクールに送ったところ賞をとったんです。教育大臣からのお祝いの手紙と25コロンもらいました。歳は15歳ぐらいでした。その時はじめて、自分はものが書けるんだ、と思ったんです。それまで、私が読んだ本というのは、シェークスピアとかテニソンとか死んだひとが書いたものばかりで、生きているもの書きというのは聞いたことがなかったんですよ。
サンホセの夜間学校で学校新聞の記事を書きはじめました。その学校のコルデーロ先生がある日、出欠をとっていて、35人の生徒みんなの名前を呼んだのに、私のだけ呼ばないんです。それでこれは差別じゃないかと思ったら、最後に、「そしてダンカン、君はまだものを書いてるのか?」と聞くではないですか。大勢生徒がいるなか、私がものを書いていることを先生が覚えていてくれたことに感激してしまいました。どんなにはげみになったか本人は知らないでしょうけどね。
もの書きの道を歩みはじめて最初のうちは、書いたものを型板を使って印刷して、友人たちに配っていただけでした。でも27歳のときに、短編をあつめたものを、サンホセの出版社に送りました。何か月たっても返事がないので、直接出版社にいって、原稿を返してくれといったらば、もう出版されることになっていて私が自分の住所を書かなかったので連絡できなかった、というんです。それが私の最初の本、「夜明けの歌」という短編集です。去年が、私の作家デビューの50周年記念でした。
最初のうちは、自分が失ったリモンに対する郷愁と、それを人に伝えたいという思いにかられて小説を書きました。でももっと広い世界を見るうちに、作家としての視野も広がっていきました。最近はコスタリカの先住民が主人公になる、歴史的事実にもとづいた短編集を出しましたよ。今はコスタリカ建国の二百周年記念が近づいているので歴史小説を書いているんです。今まであつかってきたテーマはいろいろですが、社会的なテーマが多いですね。とくに民族や人種の問題です。これまで建具屋、エピスコパル教会の牧師、私立高校の校長、大学の教授、などいろいろな仕事をしてきましたが、やはり一番好きなのはものを書くことです。今は以前より自由に物書きに専念できるのが嬉しいですね。

おじいさんに育てられて
生まれたのはサンホセの病院なんですが、私の人生の最初の15年間はほとんどエストラーダの祖父の家で過ごしました。
母はシングルマザーで、父は私が生まれたあと消え失せてしまいました。亡くなる直前にまた現れましたけどね。母は私が4,5歳になるまで祖父の家に住んでいましたが、その後、結婚してサンホセで暮らし始めました。私はおばあさんが亡くなったあと、少しの間だけ母と継父と暮らしたんですが、継父が暴力をふるったので祖父のところに戻ったんです。母もしばらくたって離婚しました。
おじいいさんとの関係は特別なもので、彼と過ごした子供時代はとても幸せでした。祖父がコスタリカに来たのは、もともとは、彼の父が、出稼ぎでジャマイカからパナマに行ったことから始まるんです。ひいおじいさんは教育にとても熱心で、いつも自分の子供たちに勉強するようにと言っていました。すると、おじいさんは、自分はどうしても機械工学を勉強したいと言い張ったんです。そんなお金がなかったので、曾祖父は出稼ぎに行ったわけです。
ところがパナマでマラリアにかかってしまいます。そして息子に、手紙でパナマに来るように伝えたんです。「お前が着くころには自分はもう死んでいるだろう。でもある女性にお金を預けたから彼女を訪ねなさい。」という内容でした。でも父がその女性を訪ねてみると「お金のことなんか聞いていない」と言うんですね。というわけで、祖父はパナマまで行ったものの、お金はないしジャマイカに帰る切符も買えない、というはめになってしまったんです。そのとき、いとこがコスタリカにいることを思い出して、彼のところで仕事をしてお金をためてジャマイカに帰ろう、と思いつきます。それでここに来て、いついてしまった、というわけです。
おじいさんは結局、農業をいとなむことになりますが、彼は自分の父と同じように教育熱心で、私がちゃんと学校に通って勉強することをいちばん大事に思っていました。当時リモン県の学校は、教会や、黒人開発協会や、バナナ農園がやっているものが多くて、授業は英語でした。祖父はいつも私がスラングでなく正式なイギリス風の英語で話すようしつけていました。時間や、約束をまもることについてもきびしかったですよ。
祖父は結局自分が望んだような教育はうけることができませんでしたが、独学で大変な数の本を読んでいました。日によっては読書に熱中して、畑仕事をほったらかしにしてしまうので、近所の人から困ったものだ、といわれてましたよ(笑)。
祖父はエピスコパル協会の執事(牧師の補佐)をしていて、牧師さんが来ないときは、彼が自分で書いたお説教をしていました。読み書きができない人に頼まれて手紙を書いてあげたりもしていましたね。それでもリモン県に住むジャマイカ人たちの間の教育レベルは比較的高くて、ジャマイカや英国から輸入した本を売る本屋がいくつかあったんです。
(次回に続く)