
「 系図学者が曾祖父から祖父への遺言もみつけてくれました。曾祖父がのこしているのは、杉の板とか、すきとか、なたとか、道具や家具がおもでした。あのころのコスタリカは農耕社会でしたからね。」
ミゲルと最初に知り合ったのは私の夫のレオナルドでした。ある日エスカス(コスタリカの首都サンホセの西隣の町)の市営テニスコートで出会って、ときどきいっしょにテニスをするようになったのです。それからじょじょに、私ともうひとりの友人が加わって、週に二回ダブルスをするようになりました。
ミゲルはどちらかというと、ひかえめで言葉少なく、あまり自分のことを話しません。そのため、彼や彼の家族については少しずつ、ポツン、ポツンとしか聞く機会がありませんでした。たとえば、彼が建築家だということ。エスカスのど真ん中にある古い、白とブルーの、素敵な農家風の家が彼の家族のものだということ。そして彼の先祖が何世紀も前からコスタリカに来ていたということ。それに、この事実はミゲルが自分の家系を念入りに調べたすえ発見した、ということ。
それで、いちど時間をかけて彼と、彼から見たエスカスとコスタリカの物語を聞いてみなくてはと思ったのです。ミゲルの話は、エスカスの中心部から少し山を登ったところにある、彼のアパートで聞きました。居間の窓からはエスカスの緑の山々のすばらしい景色が見えます。食堂のテーブルには、長い巻紙のような家系図が開いてあり、ミゲルはそのなかにある名前をときおり指さしながら話をしてくれました。
盗まれた記録
私の名前はミゲル・チャベス・フェルナンデス(Miguel Chaves Fernández)。65歳です。父はマクシモ・チャベス・ラミレス (Máximo Chaves Ramirez)、母はビルヒニア・フェルナンデス・マシス(Virginia Fernández Masis)です。(最初の名前はファーストネーム、二番目は父の姓、三番目が母の姓。ラテンアメリカでは両方の姓を使うのが普通)
家系を調べはじめたきっかけは、6年ほど前に母かたの叔母とお茶を飲んだときです。彼女が我々の家系には政治家や外交官や軍人がいると話してくれました。母はもう亡くなっていて、彼女はほとんどそんな話はしてくれなかったんで、初耳でした。叔母のいうことをナプキンにメモして、そこから糸をたぐるように調べていったんです。
カトリック教会の中央図書館、国家登録局、インターネットと、いろいろな方法でしらべました。そして2年前、プロの系図学者をやとって、それまで調べた事柄を見てもらったところ、まちがいないと言われたんです。
母かたの家系図は十三世紀のスペインまでたどることができました。スペインのどこだか忘れてしまいましたが。従弟の系図学者によると王様の子孫だというんです。でもどの王様だったかも忘れてしまいました。
父かたは、ほぼ1690年までたどりました。そのころすでに先祖はコスタリカに来ていたんです。ただどこから来たかはわかりませんでした。チャベスという苗字は「s」で終わるものと「z」で終わるものがあって、普通は「s」で終わるのはポルトガル出身で「z」のほうがスペインです。でも私の先祖たちについては確かめられませんでした。
それはカトリック教会の図書館にある記録の、1690年以前のものが盗まれてしまったからなんです。だれかが調べものをするために取り出して、返さなかったんでしょう。これはまったく犯罪です!
でも父かたの先祖たちはもう何代も前からエスカスに住んでいたことはわかりました。母の家族はサンホセの中心部のアモン地区の出身なんです。

サンホセは、エスカスからの移住者が開拓
私が育った家は、エスカスの中央公園の南東がわのかどにある古い家で、今はSin Domicilio Fijo(シン・ドミシリオ・フィホ=住所不定)というブティックに貸しています。エスカスのなかでいちばん大きな敷地のうえに建てられた家です。曾祖父が1875年にこの家を買ったときの書類は残っています。
家自体はもっと古いんです。エスカスの歴史について調べている、マシスというアマチュア歴史学者(苗字から私の親戚だとわかりますが)に聞いた話があります。彼は、首都のサンホセはエスカスとエレディア市とアセリ市の住人を無理矢理移住させて作られたというんです。1736年あたりのことになります。ということは、エスカスはサンホセの前に設立されたということです。そして、あの家もおそらくサンホセが植民される前に建てられたのだと思います。町の中心部にあって、あれだけの敷地をもっていたわけですから。
系図学者が曾祖父から祖父への遺言もみつけてくれました。曾祖父がのこしているのは、杉の板とか、すきとか、なたとか、道具や家具がおもでした。あのころのコスタリカは農耕社会でしたからね。祖父はエスカスにたくさんの土地を持っていました。祖父も祖母も最初のつれあいを亡くして、二度結婚しています。祖父は、最初の妻の子供にはエスカスの西側の土地、二番目の妻の子供には東側の土地をのこしました。彼は農場主で商売人でもありました。息子たちは彼のあとを継がないでプロフェッショナルの道を選んでいます。私の父は弁護士になり、おじのひとりは薬剤師、もうひとりは産婦人科医です。プロのサッカー選手になったのもいます。政治家だけはひとりもいませんね。
私が子供のころのエスカスはまったく田舎町でした。道路は石畳で街灯もありませんでした。でも今とはちがって安全だったので子供たちはしょっちゅう外で遊んでいましたよ。公園でサッカーをしたり、駒を回したり、自転車をあちこち乗りまわしたり。ある日、ひとりで山の頂上まで行って、降りて来る途中で暗くなって道がわからなくなってしまったこともあります。とにかく川をめざして下におりて、なんとか家に帰ったのを覚えています、
魔女は詐欺?
エスカスはよく魔女の町といわれますね。最近93で亡くなった叔父は、それは詐欺だ、と言っていました。そして、エスカスの中心部に店を出している自称魔女と彼女の相棒のことを話してくれました。
昔サンホセからエスカスに来るバスは何時間に一本、もしかしたら一日に一本ぐらいしかありませんでした。だからエスカスに用事がある人たちは席をとれるように、早くからバス停に来て待つんです。そこに魔女の相棒が行って、彼女のところに行く人たちを探し出して、話しかけます。そうやってその人たちの名前とか、どんな問題を抱えているかとか、いろいろ情報を聞き出して、彼らが魔女のところに着く前に彼女のところへ行って聞き出したことを教えてやるんです。だからお客が来ると、魔女が、「あんたの名前はこうだ、そしてあんたはこんな問題を抱えている。」と言って、お客をびっくりさせる、というわけです。
今だって「魔女商売」を新聞で宣伝してますよ。ほら、このLa Nación(ラ・ナシオン。コスタリカの有力紙)の広告をみてください。 「どんな問題があろうと、あなたのパートナーがもどってくるようにします。」もうひとつあります。「詐欺やウソにうんざりしてませんか?私はオカルト魔術師です。愛するひとをあなたのもとに戻します。幸運、お金、富。土地の売買、裁判。同性間の恋愛。私がいちばんです。3日間や数時間で解決できるものではありません。騙されてはいけません。15,000コロン(約2,700円)でご相談うけます。」
こちらの広告には先住民ふうの女性の写真が載っています。ニカラグアのディリオモだとあります。「魔女アニータ。あなたの恋人が戻ってくるように助けてあげます。WhatsAppでメッセージください。」
二十一世紀にはいったというのに、ひとはまだこういうことを信じてるんですよ!昔はどうだったか想像がつきますよね。
その反面、コスタリカは法にもとづいた社会です。いちばん上に国際法があって、その次にコスタリカの憲法、それから国内法、そして条例。もちろんコスタリカだけではありません。昔は人間社会は宗教的な道徳にしたがって機能していました。近代化にともなって宗教の役割がだんだん弱まって、法律が宗教的なモラルにとって代わっていったんですね。十九世紀にニーチェの出現とともに神が死んで、理性が台頭してきたおかげでね。それが国内の平和の基盤です。
対外的な平和はもっとむずかしいですね。というのは、軍隊を持たないので、コスタリカは攻撃しやすいからです。それでもコスタリカはいつでも法を守ることを優先してきました。そして、中立国なので正式な同盟は組んでいませんが、攻撃された場合はアメリカや、そのほかの民主主義国家が当然支援してくれるはずです。たとえば、最近カレロ島(コスタリカとニカラグアの国境にある島)をめぐってニカラグアとの問題が起きたとき。ニカラグアと、ではないですね。ダニエル・オルテガ(ニカラグアの現大統領。彼の独裁的な政権に対して国民の大きな反対運動が起きている。)とです。オルテガが武力でカレロ島を奪うとおどしたとき、コスタリカはどうしたでしょう?ライフルや大砲を出してきたりはしませんでした。もともと持ってもいないですしね。国際司法裁判所に訴えたんです。
(第二部に続く)