英語の先生エスティー、長崎へ

「 日本人の先生たちと話すと、あまり早く英語教育をはじめると、日本語教育の妨げになるからよくないというんです。私はそんなことはないと思います。英語を学んだからと言って日本語を失うことにはなりません。でも日本の人たちは外国語を学ぶということは、自分たちの文化が侵されるように感じるのかもしれませんね。私はそうではなくて、世界が広がって、より豊かになるということだと思うんですけど。」

エスティーとは、コスタリカ日本人会が開いたバーベキューで知り合いました。平和大学で働く日本人の友人が紹介してくれたのです。エスティーは数か月前、長崎大学での研修から帰国したところでした。

彼女は、コスタリカの第二の都市、アラフエラの中心部にある公立小学校で、英語の先生をしています。学校は古くて暗い建物ですが、教室や、廊下や、開いたドアから見えるトイレはきれいにお掃除してあります。

エスティーの教室に行くと、35、6人の一年生の子供たちが、こんな大きな教室にはちょっと小さすぎるかな、と思えるスクリーンで、英語のビデオを見ていました。エスティーが、私たちを連れてはいり、「今日はお友だちが来たからごあいさつしましょう!」というと、生徒たちがいっせいに、「Good morning! How do you do?」といって迎えてくれました。

授業では、エスティーがビデオの内容について何か質問をするたびに、何人もの子供たちが元気に手をあげ、大きな声で答えをさけんでいました。エスティーは、正解の時は、「イェス!その通り!」と言ったり、まちがったときは何かヒントを投げかけたりして、生徒たちが飽きないように、てきぱき授業を進めます。

あるとき女の子が席を立ち、エスティーのところに行って、彼女に抱きつきました。エスティーは当たり前のようにその子を抱きしめ、すぐ席に帰して授業をつづけます。

地球の反対側へ

私のフルネームはエスティバリス・ナルバエス・ペレス、Estíbaliz が名前、Narváezが父の姓、Pérezが母の姓です。32歳です。英語教師をはじめて8年になります。今は一年生と五年生を担当しています。

ずっと前から外国で勉強してみたくて、機会をさがしているときに、日本大使館の教員研修の公募をみつけたんです。2017年の2月が応募のしめきりで、9月に研修が始まる予定でした。その間ずっと仕事をしていて、あまり考えるひまもなくて。日本に着いてから、ようやくコスタリカから地球の反対側まで来てしまったことに気づいたんです。

私は大変なことをしてしまった、と思って、愕然としました。それまで、車でコスタリカのとなりのニカラグアとパナマに行った以外は外国に行ったことがなかったんですから!

長崎大学を選んだのは、わたしの夫が子供時代に長崎に住んだことがあるからなんです。彼の父がやはり留学していたので。

この研修コースは、教授法を大学で学ぶ部分と、中学校の英語教室で、実際の授業を観察する部分に分かれていました。そして、この経験にもとづいて、最後に論文を出すんです。一年半のプログラムで、最初の半年は日本語の研修でした。大学での授業は英語で行われるので、日本語の研修は買い物とか、日常生活のためです。ごく基本的な会話はできるようになりました。

この半年間は、大学の寄宿舎で、三人の日本人の女子学生といっしょに住んだんです。彼女たちは多文化学部の一年生で、英語ができて、大学や日常生活についていろいろ教えてくれました。なにしろ「ありがとう」と「わかりかせん」以外、日本語は全然できなくて、家にはいる前にくつを脱ぐことさえ知らなかったんですから。今でも彼女たちのひとりとは連絡をとりあっています。

日本人は周りを気にしすぎ

英語教室の観察は、長崎大学の付属中学でやりました。先生たちは英語が流暢でないので、指導は日本語でします。でもアメリカ人のアシスタントがいて、その人が英語で指示をして正しい発音を教えていました。コスタリカでもスペイン語と英語のちゃんぽんで授業をしていますけどね。でも、日本の先生たちと英語で話すときに私があまり早口でしゃべるとわからないようでした。

生徒たちはお行儀がよくて、なにか発言するときに、机からちゃんといすをひいて、立って話します。コスタリカではこんなことはしません。それに、日本の子供たちは先生に対して尊敬を持って接します。だから先生のほうも、コスタリカでのように、しょっちゅう生徒に注意する必要がないんです。でも日本の学生は質問も発言もなかなかしませんね。日本のひとは、恥ずかしがりで、まちがったことをいうのをおそれているようです。ほかのひとにどう見られるかをとても気にします。

街中でも同じでした。私の住んでいたアパートの近所では、年配の人たちがお互いあいさつする習慣があるようでしたが、私にたいしては、最初のうちは何もいってくれませんでした。それで、私から「こんにちは」と声をかけるようにしたんです。すると彼らもこたえてくれるようになりました。

小学校一年生の英語教室

英語は世界を広げる

私の論文は、日本の英語教育をより効率的にするにはどうすべきかについて書きました。中学校での授業を見学するほかにも、先生たちをインタビューしたり、アンケートをとったりしました。いちばんの結論は、英語教育を小学校の一年生からはじめるべきだ、ということです。実際、コスタリカではそうなんですが、日本では5年生からはじめます。

外国語をおぼえるのは、小さいころからはじめたほうが、発音もより正確になりますし、語彙もより豊かになります。これは仮説といえば仮説ですけど、実際、OECD(日本も加盟している経済協力機構)の調査の結果をみると、日本の子供の英語力はコスタリカより劣っています。

でも日本人の先生たちと話すと、あまり早く英語教育をはじめると、日本語教育の妨げになるからよくないというんです。私はそんなことはないと思います。英語を学んだからと言って日本語を失うことにはなりません。でも日本の人たちは外国語を学ぶということは、自分たちの文化が侵されるように感じるのかもしれませんね。私はそうではなくて、世界が広がって、より豊かになるということだと思うんですけど。

そういう意味では、私にとって日本での研修は素晴らしい経験でした。日本の人たちだけでなく、いろいろな国の人たちと交流する機会を得て、世界が広がると同時に、自分自身のアイデンティティーについても考えさせられました。

コスタリカのいいところ、日本から学ぶべきこと

一方では、コスタリカのいいところをあらためて認識することができました。

とくにこの国が軍隊を持たないことを誇りに思います。日本だけでなく、ほかの国の人たちから、「え?軍隊がないの?どうしてそんなことが可能なの?」と聞かれました。「ほかの国から攻められたらどうするの?」と。そういうときは、軍事力を使うほかにも解決策があるということそ説明しました。国際司法裁判所に訴えるとか、米州機構のような機関に仲介をもとめるとか。長崎では、よく平和に関連した会合に呼ばれて、コスタリカの経験について話しました。

その反面、コスタリカが日本を見習うべきところもある、とわかりました。コスタリカ人は凡庸であることに満足しすぎてます。だから前に進まないんです。私の学校の同僚たちはなるべく早く仕事場を出ることばかり考えていますけど、日本の人たちはしょっちゅう夜8時ごろまで残業します。日本人は規則をちゃんとまもりますけどコスタリカ人は規則をどうやったらやぶれるかばかり考えています。

日本人は、あまりにも杓子定規でいらいらすることもありましたが、私はいつもよいところを見るようにしていました。日本のひとはとても親切です。たとえば、私が日本にいるあいだにコスタリカで大統領選挙があったので、東京の大使館に投票しにいったときのことです。渋谷のハチ公の前で友だちと会って、いっしょに行く約束をしたんですが、迷ってしまいました。そうしたら、日本人の女性が、全然ちがう方向に歩いていたのに、わざわざハチ公まで連れて行ってくれたんです。東京みたいな大都市でこのような親切に出会って感激しました。

日本にいるあいだ、恋しかったのは、ラテンアメリカ人の暖かさとスキンシップです。日本人は人と人とのあいだに距離をおきます。だから、グアテマラとかペルーとか、ほかの中南米の国の人たちとよく集まりました。あいさつの代わりに抱き合えるのが嬉しかったです。

日本食は大好きです。なんでも試してみました。納豆も好きですよ!でもやっぱり、コスタリカの食事がなつかしくなることがありました。いちど日本のお米でガージョ・ピント(gallo pinto, 豆とごはんをいっしょに炒めた料理。コスタリカとニカラグアで、ふつう朝ごはんに食べる)を作ってみたんですけど、ひどい結果でした(笑)。

私は、何かを決めるときには、なるべく慎重に考えてから決断します。夫に、「そこまで考えなくてもいいのに」と、ときどき言われます。でも、慣れ親しんだ状況から出て、新しい経験をして、新しいことを学ぶのが好きなんです。自分で何か目標をたてて、達成するよういつも努力しています。たとえば、最近は専門講座に出て、コンピューターソフトのイラストレーターとフォトショップを習いました。ものごとがうまくいかないときは、とにかくその経験から何かを学ぶように心掛けています。

楽しく学ぶのがいちばん

英語の先生になろうと思いたったのは、高校の最後の年です。私は14歳になるまで、リモン県(コスタリカのカリブ海側)のグアピレス市に住んでいました。そこで、7年生から8年生まで、実験的な公立のバイリンガル学校に通ったんです。この学校での英語教育はとても進んでいたんですけど、むずかしくてとても苦労したので、その当時は英語がきらいでした。

14歳のときに母の仕事のつごうでアラフエラに引っ越してきました。彼女は生物学の先生なんです。アラフエラで普通の公立の学校にはいったら、バイリンガル学校で鍛えられたおかげで、英語の授業が無理せずにわかるようになりました。それで英語が好きになったんです。みんなが大変な思いをせずに、楽しく英語を学べるようにできればいいな、という思いが先生になる動機でした。

だから、私は生徒たちがなるべく楽しみながら学べる環境を作るように努力しています。できるだけ子供たちをほめるようにしているんです。一部の子がいたずらをしたり、いうことを聞かないようなことがあっても、むしろよくやっている子供たちのほうをほめてあげるんです。そうすると、悪いことをしている子もほめられたくて、いうことを聞くようになります。

授業中に私に抱きついてきた子がいましたね?一年生の子供たちは素直に感情をあらわすので、私が教室にはいると、抱擁でむかえてくれるのは普通なんです。よく、「先生、だいすき」って言ってくれます。そういうときは、なるべく励みになるようなことを言ってあげるようにしています。「先生もあなたが好きよ。あなたはとってもよくできる子だから。」というふうにね。

でも私が教えている学校は大きくて、ひとつのクラスに30人以上生徒がいます。そして授業時間もほかの科目とのかねあいで、十分ではありません。だから時間をかけて、ていねいに教えるのはむずかしいんです。学校制度自体も融通がきかなくて、なかなか自分が思ったようにできないところもあります。

日本に行って、こういう問題はコスタリカにかぎったことではない、とわかりました。先生たちが、教育とはあまり関係ない書類仕事に追われること、いったん仕事をはじめると、研修の機会がなかなかないことなども共通の問題です。

でも、字もまともにかけなかった子が、英語でちゃんと日付が書けるようになったときの満足感は事務所仕事では味わえません。

(インタビュー2019年7月18日)

英語の先生エスティー、長崎へ” への2件のフィードバック

  1. 多彩な人物がいるんですね。日本の観察も鋭いです。今回も濃い内容になりました。分かりやすい文章ですね。

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