元環境大臣エドガー、森林再生と人とのつながりが生きがい

コスタリカの元環境大臣、エドガー・グティエレス

「 大臣として達成できたことのなかでいちばん誇りに思うのは、政策の作り方を変えた、ということです。市民の参加を得て、下から組み立てていくやり方に変えたんです。たとえば、国家エネルギー計画を作成した時です。電力会社、環境保護団体、学会、政府機関、政党など、社会のあらゆる分野の人びとを集めてアイデアをだしてもらい、それにもとづいて計画をつくりました。」

私がエドガーに出会ったのは、2012年だったと思います。当時、彼はコスタリカ大学の統計学部長で、私はコスタリカの国連常駐調整官でした。毎年、国連開発計画(UNDP)が、コスタリカ大学の統計学部と協力して、この国の各市町村の人間開発指標を計算して発表していました。エドガーとは、この仕事の関係で知り合ったのです。

そののち彼は、ソリス政権(2014-2018)のもとで環境大臣をつとめることになります。その間も、いろいろな課題について協力する機会がありました。エドガーは、大学にいたときも、大臣になってからも、思ったことをあけっぴろげに、ずけずけ言う人です。同時に、人間味が深く、ユーモアがあって、彼といっしょに仕事をするのは楽しい経験でした。

エドガーとの交流のうえでいちばん印象に残ったのは、彼が奥さんのメラ二アといっしょに、サンホセ郊外のプリスカル市の荒地に20年以上かけて育てた森林です。今回はその木々にかこまれた、彼らの家のテラスで話を聞きました。

第二共和国の申し子

フルネームは、エドガー・グティエレス・エスペレタ(Edgar Gutiérrez Espeleta)、63歳です。私はコーヒー農園のなかで育って、とても幸せな子供時代をすごしました。最初は首都のサンホセの南にあるサン・イグナシオ・デ・アコスタのコーヒー園でした。父がそこの会計士で、母は学校の先生をしていました。小学校にあがるころに、その農園を経営している会社がサンホセに事務所を移したので、私たちも引っ越しました。そのあとも、サンホセの東のサン・ペドロに母方の祖父のコーヒー園があって、そのなかにある母の家に住むことになったんです。

おかげで囲いなしで育って、自由にあちこち走り回っていました。それに絶えずいろいろなひとにかこまれている生活でした。農園の労働者たちとか、彼らの家族とか。サン・ペドロに移ってからは、同じ敷地に母の兄弟たちの家があったので、私にとっては、親兄弟がどっと増えたようなものでした。とても楽しい毎日でしたよ。今、サン・ペドロの大きなショッピング・モールがあるところに、当時はコーヒーの精製所があって、よくおじいさんといっしょに牛車に乗ってコーヒーをそこに運んだものです。

小学校は、近所の公立の学校に通いました。60年代のはじめで、当時はすべての社会階層の子供たちが公立の学校に行っていました。だから、あのころの公立の学校は、教育の程度が高かっただけでなく、連帯感のある社会を育むためにとても重要な役割をはたしていたんです。そういう意味で、私の世代は、第二共和国 [1]が生んだ世代だといえます。

でも70年代、80年代にはいって、だんだん金持ちのための私立学校と、貧乏人のための公立学校というふうに分かれていってしまいました。 そのために公立の学校の教育程度も下がってしまったんです。 私も中学校からは、カトリック教会の学校に通うようになりました。 でも、小学校の同級生たちとは、今でもよく集まりますよ。

家はコスタリカ大学の近くにあって、アカデミックな雰囲気のなかで育ちました。兄がまずコスタリカ大学の教授になって、私もいずれ教授になる、という目標をたてたんです。コスタリカ大学で学士号をとってから、CONICIT(国家科学技術研究委員会)から奨学金をもらって、アメリカのアイオワ州立大学で、修士号と博士号をとりました。

博士課程では、さまざまな種類の樹木が違った環境のなかでどういうふうに成長するかをシミュレーションするための、微分方程式を開発したんです。それによって、森林再生をより効果的にするのが目標でした。コスタリカでは、大きな植林地をつくっても、環境が適当でないためにうまく樹木が育たない例がたくさんあったのでね。

はからずも環境大臣

2014年に、ソリス大統領から家に電話があって、環境大臣をやってくれ、と頼まれたんです。そのときは、喜んで協力はするけれども、大臣になるつもりはない、といって断ったんです。すると次の日にまた電話があって、ぜひやって欲しいというので、家族とも相談したうえで、引き受けることにしました。

大臣として達成できたことのなかでいちばん誇りに思うのは、政策の作り方を変えた、ということです。それまでの環境政策の作り方というのは概してうえからの押し付けでした。それを、市民の参加を得て、下から組み立てていくやり方に変えたんです。たとえば、国家エネルギー計画を作成した時です。UNDPも協力してくれましたよね。電力会社、環境保護団体、学会、政府機関、政党など、社会のあらゆる分野の人びとを集めてアイデアをだしてもらい、それにもとづいて計画をつくりました。

自然保護区域の管理を改善するためにも、地域の住民の参加をつのりました。たとえば、コルコバード国立公園のなかで違法に砂金をとっている人たちです。ただ彼らを取り締まるだけでは問題は解決しません。私たちはむしろ、この人たちに環境保護と観光の仕事で収入を得られるよう訓練して、我々の同胞になってもらったんです。

国際的な場でも貢献できたと思います。私が任命された年は、国連環境総会の議長をラテンアメリカの国がつとめる番でした。それで、コロンビアとメキシコとチリ―の環境大臣たちが、コスタリカがつとめるよう、依頼してきたんです。私は、例外的にこの年の第二回総会と次の年の第三回総会と、二度つづけて議長をつとめることになりました。

ナイロビで開かれた、第三回総会で、はじめて閣僚宣言をだしたんです。私は、閣僚会議のひと月前にナイロビに行って、各国の代表団と相談しながら草案を作り、すべての加盟国代表団の合意を得ることができました。

ところが、閣僚会議がはじまる前の日に、サウジアラビアの環境副大臣が私に会いに来て、草案のなかで環境汚染に対する財政的な措置に触れている部分にOPEC全体が反対している、というんです。それで私は会議の場で、一時間だけ、宣言についての討議を再開する、といいました。そして各国の意見を聞いたうえで、新しい草案を作って提出することにしました。けっきょく、問題の文章を少しやわらげて、国によっては、直接に外務大臣と電話で話して交渉したんです。幸い閣僚宣言は満場一致で採択されました。

この経験は私にとってとても貴重な教訓になりました。ひとつ学んだのは、それぞれの国の立場や意見や利害関係についてよく聞き、理解する必要があるということです。もうひとつは透明性の重要さです。私は各国と交渉するにあたって、すべてがおおやけであるように努力しました。ウェブページをつくって、各国の大臣たちとの会談は全部そこに載せるようにしたんです。隠しごとは一切ないようにね。これはとても喜ばれました。「さすがコスタリカだ」といわれましたよ。

環境大臣の仕事のうえでいちばん苦労のたねだったのは、行政制度のやっかいさです。たとえば、だれかが環境省のとった措置が気に入らなくて憲法法廷に訴える、というのはしょっちゅうのことでした。いったん訴訟が起こされるとその仕事は中断しなくてはなりません。議会からは絶えず、くだらないことについて質問してきます。トイレットペーパーをどれぐらい使っているかとかね!こういうことに時間をとられて、重要な仕事が進まないようにするためですよ。コスタリカのような民主主義のなかで、なるべく多くの人に恩恵がとどくよう行政の仕事をする、というのはとてもむずかしいことです。

つい最近、国連砂漠化対処条約の事務局から、砂漠化についての国連特使になってくれ、という誘いがあったので、喜んで受けました。特使としての仕事は、主に各国のリーダーたちに、この問題に積極的に対処するようアピールすることです。

荒地を森林に変える

コスタリカの元環境大臣、エドガー・グティエレスと、妻メラ二ア
エドガーと奥さんのメラ二ア、彼らが植林した森を背景に
植林する前の土地は、はげ山の部分

我々が今住んでいる、この土地を買うことになったのは、20年以上まえのことです。当時、私はプリスカルで、森林再生の可能性についての研究をしていました。それがきっかけで、この地域のお百姓や牧場主と協力することになったんです。たとえば水の供給の問題を解決してあげたり、より効率的な牧畜のやり方を開発したり。

するとある日、知り合いの農場主が、「ぜひ先生に私たちといっしょに住んでもらいたい。ついては、自分がいくらか土地をもっているからそれを買ったらどうか」といってきました。そんなお金はない、というと、その土地はどうせ使ってないから払えるときに払ってくれればいい、というんです。それで結局サン・ペドロに持っていた土地を売って、ここを買ったんです。1995年でした。

当時ここは牧草地で木がまったくなかったんです。ここに生えていたグラミニアという草は、大きな雑草で、雨が降ると、水がその周りに流れて溝を作っていきます。それが長年つづいて、地面はまるでコンクリートのようでした。それにこの土地はかなり急な傾斜になっているので、それも植林を困難にしていました。

植林を始める前に、まず色々な種類の樹木を、それぞれ特定の場所に植えてみて、どこにどういう種類がうまく育つか調査しました。それにグラミニアを退治しなくてはなりません。農薬なしで排除するためには日陰を作る必要があったんで、そのためにボタラマという、成長の早い木を植えたんです。グラミニアが退治できたら、今度はボタラマを選択的に死なせて空き地を作っていき、そこに別の種類の樹木を植えます。こうして、自然の森林で起こる過程をまねたわけです。

かなり密集した森が育つまで15年ぐらいかかりました。大した時間ではありませんよ。とても素敵な経験でした。命を育むというのはすばらしいことですよ。

自分は本当に幸運な人間だと思ってます。これまでずっと好きなことをして来て、とんでもないこころみに共に挑んでくれる伴侶にめぐまれて。4人の子供たちも、それぞれ絶えず新しいチャレンジにのぞんでいます。これは私たちから学んだんでしょう。

知らない人とワインを飲もう

これから、ここの家をペンションに改造する計画です。ただし、どんなお客でも泊めるつもりはありません。知性があって、話をしておもしろい人だけ招くんです。そういう人とこのテラスに座って、ワインを飲みながらおしゃべりするのを楽しみにしています。妻のメラ二アも私もいろんな人と会話をするのが大好きなんです。この前、ふたりでコスタリカの南のほうにあるプエルト・ヒメネスに旅行したときのことです。レストランに行ったら、女性がひとりで食事をしていたんで、私たちのテーブルに招いたんです。とても楽しい会話ができて、新しいものの見方を学ぶことができましたよ。

日本には、大臣をしていた時に行って、大分で協同組合が実施している地熱発電プロジェクトを見に行きました。スケールは小さなものでしたが、すべての住人が恩恵をうけられる試みで、とても気に入りました。コスタリカも見習える経験です。

日本や中国や韓国の文化は何千年もの歴史のたまもので、西洋の文化も結局はアジアに源があることがわかります。日本の社会はコスタリカよりずっと進んでいて、我々は日本のよい経験からも、悪い経験からも学ぶべきです。

たとえば、日本人は人と人とのあいだにとても距離をおきますね。私が日本に行ったときは、若者がセックスをしたがらないということが問題になっていました。相手の汗にふれるのが気持ち悪いから、というんです!私たちはそんなふうにはなりたくないですよね。人と人が抱き合うことほど安らぎを与えてくれるものはありません。

日本へのメッセージですか?しあわせになってください!お互いを好きになってください!知らない人に話しかけて、いっしょにワインを飲んでみてはどうですか?

(インタビュー2019年7月9日)


[1] 1948年に、大統領選挙の結果をめぐる紛争が内戦にいたり、ホセ・フィゲレスひきいる、「国家解放軍」が勝利, 「第二共和国」の設立を宣言する(コスタリカは、1848年にはじめて共和国となる。この年から1948年までが第一共和国時代)。フィゲレスの指導のもと、軍隊が廃止され、社会民主主義的な政策が進められる。

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