
国境からサンフアンへ
ペーニャス・ブランカスの国境から、きれいに舗装された道路を一時間ほど走るとサンフアンに着きます。
牧草地やサトウキビ畑がいっぱいの、コスタリカ北部グアナカステ県と同じような景色をながめながらのドライブです。

印象的なのは、前回に写真をのせたニカラグア湖と、大規模なウィンドファーム(集合的風力発電所)です。

サンフアン
サンフアン・デル・スールとは、南のサンフアン(サンフアンは聖ヨハネ。ラテンアメリカには聖人の名前が場所の名前によく使われています)という意味です。1万5千人ちょっとの小さな港で、もともとは漁師の町でした。80年代の半ば、ユニセフの仕事でマナグアに住んでいたころ訪れたときは、ホテルと呼べるような宿は一軒、レストランもほとんどありませんでした。でもここ20年間に、バックパッカーの到来にはじまって、急激に観光客が増えました。今は、ホテルやレストランや、サーフショップをそこら中に見かけます。
コスタリカには素晴らしい観光地がたくさんありますが、値段が高めです。サン・フアンはもう少し安価な場所を求めるひと、あるいはもうちょっと素朴なバケーションスポットを探している人に人気なようです。
現地のひとと話すと、みんな最近の政情不安でかなり観光客が減っていて大変だといいます。それでも街を歩くと、あちこちで観光客らしき西洋人を見かけます。
サン・フアンの町には三日月がたの湾に面したビーチがあり、ここの海はいつもおだやかで、海水浴には理想的です。そしてサンフアン周辺には、ほとんどひとのいない、自然のままのビーチがいくつもあります。
サンフアンには、昨日と今日泊まって、明日はマナグアです。
サンフアンには、1972年に、建築家の義父が建てた家があります。もともとは別荘として建てたのですが、同じ年の末にマナグアで大地震が起こったあと、家族はこの家に数か月避難したことがありました。
内装は、壁も床も白木で、ごく簡素なものでしたが、デザインはモダンで、独創的で、遊び心いっぱいな家でした。義父は10年以上前に亡くなりましたが、その後、レオナルドと義母と兄弟たちが、義父のビジョンを大切にしながら、すっかり修復し、改装しました。
これがその家です。大きな建物ですが、家族もとても大人数なのです。義母ももう数年前に亡くなってしまいましたが、彼女が健在のころは、毎年クリスマス直後には子供や孫、甥、姪など20人以上がこの家で数日過ごしたものでした。
今は貸別荘になっていますが、ときおり私たちや、夫の兄弟も使っています。
赤いフェンスのあるバルコニーから見た夕焼けです。
これはビーチの風景。
ニカラグアは、中南米で数少ない野球好きの国。大リーグにも何人かニカラグア出身の選手がいます。
そしてサンフアンの町。
もと電信電話公社の入っていたビル。ADMINISTRACION (政権)という言葉の右側の言葉が消されているのは、独裁者のソモサの名前が書かれていたからです。 2,30年前は唯一のホテルらしき宿だったHotel Estrella。今はロシア系カナダ人が買い取って、ちょっとトレンディーっぽいカフェ兼ペンションになっています。 ニカラグア出身の、世界的詩人ルべン・ダリーオと、キューバの独立革命の指導者ホセ・マルティの像にはさまれて。 教会 中央公園の子供の遊び場 ニカラグアの革命家で、1920年代から30年代にかけて、ニカラグアを侵略したアメリカ海兵隊に対する抵抗運動のリーダーだった、アウグスト・セサル・サンディーノの肖像画。ニカラグア大統領ダニエル・オルテガが率いるサンデイ二スタ解放戦線は、当初はこのサンディーノにインスピレーションを得ました。
続きはまた明日…
有難うございます。とても懐かしいです。 あの頃を思いだします。