
「 去年の四月に反対運動と弾圧が始まってから、また若者のお葬式を取材することになってしまいました。このようなひどい殺戮が起きるとは夢にも思いませんでした。80年代に従軍記者をやっていたときより今のほうがつらく感じます。何より怒りと無力さを感じるんです。このひどい不公正に対して、そして国が破壊されていくことに対して何もできないんです! 」
ガブリエラ・セルサー(Gabriela Selser)に最初出会ったのは、1980年代の半ばに、ユニセフの仕事でニカラグアに住んでいたときです。そのころニカラグアは、サンディニスタ革命政権と、コントラと呼ばれる反革命派ゲリラとの間の内戦のさなかでした。当時、夫のレオナルドはサンディニスタ民族解放戦線(FSLN)の機関紙、バリカーダ(Barricada=バリケード)の戦場カメラマンで、同じ新聞の記者だったガブリエラとよく組んで仕事をしていました。
ニカラグアの歴史的背景と、現在の政情不安については、7月27日のマデレンについての記事にも書きました。また、こちらのページにも説明してあります。
ガブリエラはブエノスアイレス生まれのアルゼンチン人ですが、もう40年間ニカラグアに住んでいて、ニカラグア国籍も持っています。彼女の父は、グレゴリオ・セルサー(Gregorio Selser)という、中南米では著名な歴史学者でジャーナリストだった人です。
バリカーダ誌は何年も前に廃刊になりました。今ガブリエラは、AP通信社とドイツのテレビ局ドイチェ・ヴェレの記者として、300人以上の死者を出したサンディニスタ政権の弾圧にめげず、自由をもとめ続ける市民運動について報道しています。
9月のはじめにニカラグアに旅行したときに、マナグアで彼女のストーリーを聞きました。時間がなくてあまり詳しく聞けなかった、サンディニスタ革命時代の話は、彼女が書いたサンディニスタ革命のメモワール、「旗と布切れ」からとりました。
父の本
私が40年前ニカラグアに来る決心をしたのは、父がサンディーノについて本を書いたからです。アウグスト・セサル・サンディーノはニカラグアの革命家で、1920年代から30年代にかけて、ニカラグアを侵略したアメリカ海兵隊に対する抵抗運動のリーダーでした。サンデイ二スタ民族解放戦線の名前は、このサンディーノにちなんでつけたんです。
父は1954年にこの本を書きました。私は今58歳ですから、わたしが生まれる前のことです。父は生涯ラテンアメリカの人々の、自由と正義のための戦い、そしてアメリカのこの地域への介入について研究し、たくさんの本や記事を書きました。
1954年には、もともとグアテマラで、その年にアメリカの後押しで起きたクーデターについて書くつもりでした。でも中央アメリカについて調べていくうちに、サンディーノという人物に出くわして、完全に魅了されてしまったんです。それでグアテマラの本はあとまわしにして、「サンディーノ、自由な人間たちの将軍」にとりかかりました。ニカラグアには一度も行かずに、ブエノスアイレスの国会図書館にある新聞記事を調べつくして書いたんです。
その当時はニカラグアはまだソモサの独裁政権下にあったので、この本をおおやけに取り寄せることはできませんでした。隠して持ちこんで、ガリ版刷りのコピーをつくって配っていたんです。サンディニスタ民族解放戦線の創設者のひとりだった、カルロス・フォンセカがFSLNを起ちあげたときにこの本を持っていたそうです。
ある日ニカラグアから、だれかがガリ版刷りのコピーを父に送ってくれました。まわりに目立たないよう、ろうそくの明かりで作ったもので、本にこぼれたろうがまだついていました。父がそれを見て泣いていたのを覚えています。
そういうわけで、家ではしょっちゅうサンディーノの話が出て、私は彼のことを家族の一員のように感じながら育ったんです。

ニカラグアへ
1979年にサンディニスタ革命が勝利したときには、私たちはメキシコに亡命していました。1976年にアルゼンチンでクーデターが起きたあと、左翼と見られたジャーナリストは軍事政権に投獄されたり殺されたりしていたんです。父も狙われているとわかっていたので、まず彼が最初に国を出て、その次に母、そして最後に私と姉のイレーネとペットのシェパード犬のルリが発ちました。
サンディニスタ軍が勝利する前からメキシコで支援活動に参加していました。そのころはニカラグアを地図でみつけるのがやっとだったんですけどね。革命政権が、ボランティアを募って識字キャンペーンを実行する、と発表したときに、ニカラグアに行くと決めました。そのときいちばん反対したのは父でした。危険だといって。一週間お互いに口をききませんでした。私が、「パパが観念的に取り組んできたことを私は実行に移したいの」といったら、ようやく許してくれました。
1980年の2月11日にマナグアに着いて、次の日に識字キャンペーンの本部に行きました。二週間の研修を受けたあと、3月23日に大勢のニカラグア人の学生ボランティアたちといっしょに、北のほうの山岳地帯に派遣されたんです。
東ドイツから寄付されたIFAというトラックに乗って、二日間かかって、マナグアから200キロほどのところにあるワスララという、人里離れた村に着きました。私はそこからラバに6時間乗って、サンホセ・デ・ラス・カスキータスという村まで行きました。この村の中心部からさらに一時間ほど山を登ったところに住むアラウスという農民の一家といっしょに住み、彼らに読み書きを教えることになったんです。
アラウス家はお父さん、お母さん、おじいさん、子供や孫たちなどいれると全部で16人でした。おじいさんは50年前にサンディーノといっしょに、アメリカの海兵隊を追い出すために戦ったんです。私は彼らと6か月間いっしょに暮らしました。寝るときもひとつの部屋に、みんなといっしょに寝ました。トイレもなくて、用を足すときは家のわきのトウモロコシ畑に行くんです。
私の生徒はお父さんのフアン、お母さんのフランシスカ、そして子供4人でした。フアンはすでにいくつか文字を知っていたので、わりあい早く読み書きをおぼえましたが、フランシスカはとても苦労していました。最初はAとEのちがいもなかなかわからなくて。彼女は畑仕事のうえにみんなの食事をつくったり、子供の世話をしなくてはならなかったので、いつも疲れていました。毎日の教室のおさらいも、子供をみんな寝かせてからするんです。
彼女はある日、女としてあのような山の中でくらすのがいかに大変か話してくれました。「骨が痛むし、医者もいないし、みんな女は貧乏人のおなかをしている」と。まだ37歳なのに9人こどもがいたんです。いちばん上が21歳で下が4歳でした。
山の中の生活は慣れないことばかりで苦労しましたし、反政府ゲリラが出没しはじめて、怖い思いもしました。ある晩、識字ボランティアのひとりがゲリラに殺されて、フアンにその話をしました。すると彼は、「ねえ、お嬢ちゃん、あんたのお父さんは今遠くにいてあんたを守ってやることはできない。だから今は俺があんたのパパだ。」と言ってくれました。家の壁にぶらさげてあるたくさんのマチェテ(山刀)を指して、「だれかがあんたに悪さをしようとしたら俺の子供のように守ってやる。もし相手が武器を持ってたらあんたに何かする前に俺を殺さなくちゃならん」てね。
最初に識字キャンペーン本部に行ったときに、コーディネーターのフェルナンド・カルデナル神父に、「農民たちに読み書きを教えることによって、君たちは彼ら以上にものを学ぶことになるだろう」と言われました。たしかにそのとおりだったんです。当時の日記をみると、こう書いてあります。「山の中を歩くこと、マチェテを使って木の枝を切り払うこと、太陽の高さを見て時間を知ること、アロエの葉で虫刺されをいやすことを学んだ。貧しいひとたちの暮らしがいかに苦しいものか、そして豆ひと皿がどれだけ貴重かもわかるようになった。」
戦場へ
識字キャンペーンが終わって、メキシコの大学でジャーナリズムを勉強することになっていたんですけど、ニカラグアに残ることにしました。マナグアのカトリック大学で、ジャーナリズムを勉強しながら、アヘンシア・ヌエバ・ニカラグア(Agencia Nueva Nicaragua・ANN=新ニカラグア通信社)で記者の仕事をはじめました。
3年間ANNで働いて、バリカーダに移り、両方合わせて7年間従軍記者をやることになります。その間いつでも死ぬ可能性があるということを意識していました。でもまだ20代で若かったのと、女でも勇敢なんだということを見せたくてしりごみしなかったんです。それに革命は永遠で、FSLNは無敵だといつもいわれてましたし。
でもジープに乗って、暗い山道を戦場にむかっているときはいつも恐怖を感じていました。
いちばん心に残っているのはやはり若者が死んでいくのを見る苦痛です。ほとんどが当時の私と同い年ぐらいの、17歳から22歳ぐらいの男の子でした。なかには望んで軍隊にはいったひともいましたが、ほとんどはそうではなく、徴兵されて、やむを得ず戦闘にくわわった若者たちでした。
どちらにしても、みんな当時の状況の被害者だったんです。ニカラグアは冷戦のさなかの大国のあいだにはさまれていました。それにサンディニスタ政権もあやまちをおかしました。自然でのびのびして、寛容でありえた革命に自分たちのレッテルをはろうとしたのはまちがいだったんです。
哀しい思い出のひとつに、ある兵士に頼まれて、彼のお母さんに手紙を届けたときのことがあります。手紙を受け取ってから何日かたって、マナグアの貧しい区域にある彼の家に行きました。すると、もうその子は亡くなっていて、ちょうど彼のひつぎをかこんでお通夜をしていたんです。手紙をお母さんに渡すと泣きくずれてしまいました。彼女が落としたその手紙をみると、こう書いてあったんです。
「ママ、お願いだから悲しまないで。こちらはみんな元気でもうすぐ帰るから。あとほんの三週間で兵役を終わることを忘れないで。」

再びの悲劇
去年の四月に反対運動と弾圧が始まってから、また若者のお葬式を取材することになってしまいました。このようなひどい殺戮が起きるとは夢にも思いませんでした。80年代に従軍記者をやっていたときより今のほうがつらく感じます。何より怒りと無力さを感じるんです。このひどい不公正に対して、そして国が破壊されていくことに対して何もできないんです!
これまでの人生のなかで去年ほど泣いたことはありませんでした。きっと、ずっと以前から積もり積もった悲しみなんです。
それに報道の仕事も従軍記者時代より危険なように感じます。従軍記者だったときは軍に守られていました。でも去年デモの取材に行って、警察や武装グループが発砲しはじめると、どこから銃弾が飛んでくるかわかりませんでした。
いちど、大学生の娘といっしょにデモに行ったことがありました。発砲がはじまると、それぞれ逆の方向に逃げてしまって、しばらく離ればなれになって、はらはらしました。
よく、過去のあやまちをくりかえすなといいますけど、結局くりかえしているんですね。ようやく喪が明けたとおもったら、またあらためて喪に服さなくてはなりません。
今サンディニスタ革命を振り返ってみて、私も含めて大勢の人びとがすべてをささげた夢だったと思います。この革命のために命だってささげる用意があったんです。でも夢は裏切られました。何千人もの若者が戦争で死んでいくあいだ、革命のリーダーたちの一部は大金持ちのように暮らして、独断的に国を治めていたんです。
民主主義のもとではこんなことは起こりません。たとえばコスタリカでは政府や議会は人びとの意見を聞きます。勝手な決断を押しつけることはありません。
今の戦いは左翼と右翼のあいだのものではありません。不正を犯すもの対そうじゃない人たち、人権対弾圧、自由対独裁主義の戦いです。
でも私はサンディニスタ革命に自分のすべてをささげたことは後悔していません。あの経験があったからこそ今の私があるんですから。
ジャーナリストの使命と日本への訴え
私は3人姉妹の末っ子です。私が子供のころ父は、ジャーナリストになってくれる男の子が欲しかったといっていました。でも私たち3人ともジャーナリストになってしまったんです。女だってできるんだということを見せたかったんですね。
父は私がジャーナリストになってからは誇りに思ってくれました。私がニカラグアに来てから数か月後に父ははじめてこの国を訪れたんです。世界的に著名なジャーナリストだった父に対してここの人たちが「ガブリエラのお父さんですね」というのを喜んでいました。
ジャーナリストの仕事で満足感を得るのは、現実をつたえること、人びとの感情や生活をつたえることです。人によってそれぞれちがった真実を持っています。そしてジャーナリズムはすべての真実をつたえなくてはなりません。
それに今のニカラグアでは、私たちは市民を守る役割をはたしています。警察にはたよれないですし、人権擁護団体も弱い立場にあります。だからデモをしている人たちが攻撃されそうになるとメディアを呼ぶんです。カメラの前では警察も多少は自粛するので。
ニカラグアが民主主義にもどるのを願っています。だれも思想のちがいのために殺されたりしない自由な国。大統領が権力をまるで戦利品のように手放さないということがない国になることを願ってます。
日本もニカラグアを見守って欲しいです。まだ危機状態は終わっていません。民主主義に向かってすすむようプレッシャーをかけてください。
(インタビュー2019年8月30日)
セルサールの本はいくつか読みました。娘さんも最前線にいるんですね。平和な日本にいると、何だか申し訳ない感じです。21年の選挙で、良い結果が出ればと思います。
彼女の本もとてもいいですよ。