ベトナム人留学生ティエン: 自由はあたりまえじゃない

「コスタリカのように自由にデモをできるというのは、私たちベトナム人にとっては夢のようなことです。コスタリカ人にとってはあたりまえなんでしょうけど。」

ティエンには、数週間前にサンホセで行われた、気候変動対策を訴える集会で出会いました。彼女はコスタリカにある平和大学という国際大学の学生のグループといっしょに来ていて、共通の友人が紹介してくれたのです。ベトナムから留学しているとのことで、菅笠をかぶり、手書きのプラカードをかかえていました。プラカードにはこう書いてあります。

「声をあげてください。それができるのですから。」

残念なことに、雨が降っていたこともあって、集会はごく小さなものでした。多くてせいぜい100人ぐらいだったでしょうか。

私は早めに帰ったのですが、帰りのくるまのなかで友人から、ティエンが集会で演説をしているビデオが届きました。「私の国には言論の自由がありません。デモをする権利もありません。この自由と権利を持つ人たちはもっとフルに活用してください!」と呼び掛けています。

環境保護から「違法な」デモへ

トゥリン・ティエン(Trinh Tien)といいます。32歳です。ベトナム南部、メコン川デルタのキエンザン省で生まれ育ちました。

ニュージーランドの大学で環境保護について勉強して、平和大学に留学するまえは、国際機関やNGOでキエンザンの環境保護のしごとをしていました。ドイツの開発協力機関GIZとマングローブ再生プロジェクトをてがけたり、国際自然保護連合(IUCN)でメコンデルタの洪水対策の変革にむけて政府にはたらきかけたり。 

はじめてデモをやったのは、2016年です。台湾のフォルモサという製鉄会社の排水のせいで、大量に魚が死んだ事件がありました。当初は会社も政府もこれを否定していて、ネットで、反対デモをつのる声が上がったんです。ベトナムの主要都市で大きなデモが起きたのはこれがはじめてでした。

デモは4月30日にはじまる予定だったんですけど、29日がベトナム戦争の終戦記念日でした。私はそのときホーチーミン市にいたんですけど、大勢のひとが公園に集まって、音楽をきいたり、パフォーマンスをみたりしていました。あんなにひどい海洋汚染事故がおきたのにまったく気づいてもいないんです。私はふたりの友人といっしょにいたんですけど、その場の思いつきでみんなで近くの店に行って、紙を買ってプラカードをつくりました。私は英語とベトナム語で、「私たちの海と環境をまもってください」と書いたんです。

もっと多くのひとに海洋汚染問題について知ってもらいたいという思いに駆られて、プラカードを持って歩きはじめました。大人数ではなかったですし、だれも振り向いてくれなかったので、別に問題ないと思ったんです。でもそうしているうちに友たちとはぐれて、警察官にかこまれてしまいました。「あなたのやっていることは違法だから逮捕する」というんです。

私は、「何もぬすんだわけでもないし、麻薬をやっているわけでもありません。武器だってもってません。憲法は、自分の意見を平和的にあらわす権利を保証してます。」とこたえました。そしてそこを去ろうとしたら追ってきたんです。コンビニに逃げ込もうとしたら、そこのガードマンが私をつかまえようとします。すると、そばにいたカトリックの尼さんが、「あなたのやっていることはだれでもやる権利があるはずよ」といいます。「それじゃ私といっしょに来てください」といったらやっぱりこわがって断られました。

そうこうしていると、西洋人の一行が近づいてきて、どうしたのかと聞いたんです。すると今度は警察の態度がすっかり変わって、近寄ろうともしません。この一行のひとりが私がその場を離れて、通りのおわりにたどりつくまでいっしょに付き添ってくれました。

次の日からはじまったデモは大規模なもので、それから数週間のあいだ毎土曜日にあつまりました。でも警察が暴力をふるって弾圧したんです。だから危険でしたけど、どうにか恐怖を克服して参加しました。私たちはデモをする権利があるはずだと思ったんです。

海洋汚染への反対運動が鎮圧されてからも、フェイスブックに環境問題や気候変動について投稿していました。

私は直接警察から迫害をうけたことはありませんけど、私の妹が警察官と婚約したときは、私の仕事や学歴などについて詳しく書類を書かされました。仕事場にも警察がひと月にいっぺん来て、私たちの活動についていろいろ聞いていました。

コスタリカのように自由にデモをできるというのは、私たちベトナム人にとっては夢のようなことです。コスタリカ人にとってはあたりまえなんでしょうけど。

サンホセの気候変動集会にて

中国人同級生に自分を見る

平和大学に来たのは、もっと勉強してよりよい仕事につきたかったからです。日本財団のアジアン・ピースビルダーズ(APS)というプログラムの奨学金をもらって来ています。このプログラムは日本とほかのアジアの国の学生に奨学金をだしていて、平和大学とフィリピンのアテネオ大学と両方で勉強し、両方から修士号をもらえるんです。私は平和大学では天然資源管理を専門に勉強しています。

毎日が学びの連続です。授業から得る知識だけでなく、ほかの学生との交流からもです。APSできている学生のほかに、アメリカ人、ラテンアメリカの人。それに中国人の学生も、政府が奨学金を出しているのでわりあい多くいます。私は最初はAPSの人たちとばかり話していたんですけど、今はなるべくほかのひととも話すようにしています。私がもっとオープンであればほかのひともそうあってくれると思うので。

APSの同胞たちとは何でもざっくばらんに話し合えます。たとえばミャンマーの人たちとはロヒンギャ問題の話もできますし、日本人の学生と慰安婦問題について話すこともできます。

中国人の同級生ともなかよくしていますけど、彼らは中国が関係する政治問題にはふれたがりません。たとえば授業でだれかが香港のこととか、ウイグル問題とかについて何かいうと、「これについては授業の外で話そう」というんです。

でも彼らを見ていると、ある意味で自分を見ている気がします。プラカードをつくってひとりでデモをしたあの日までは、一度も自分の意見をおおやけに表現したことがなかったんですから。両親が私をニュージーランドで勉強させてくれなかったら、今も中国人の同級生と同じようにふるまっていたかもしれません。

ベトナムは中国よりはもう少し自由だと思います。インターネットの世界には反体制のブロガーもいますし。今ベトナム人は、ニュースの70パーセントはインターネットからとっています。もうテレビのニュースは時代遅れですね。

将来ベトナムはもっと自由になると思いますけど時間がかかります。変革はすぐには起こりません。

夢は故郷で村おこし

私は国際的なキャリアを目指しています。アメリカで仕事を探そうかとも考えています。カリフォルニアに父方の親類と私の母が住んでいるので。父の兄弟はベトナム戦争中にアメリカに亡命しました。戦後ベトナムにもどって、父と母もアメリカに移住するよう説得したんですけど、父はそうできる前に癌で亡くなったんです。

彼はアル中でした。とても才能のあるひとだったんですけど、それをフルに発揮することができませんでした。亡くなる前は、ホーチーミン市でゴミのリサイクルの仕事をしていました。「俺は酔っ払いだけどゴミはちゃんと仕分けしてるぞ」といって笑っていたのをおぼえています。

私の夢は、ベトナムで、在来種の作物をつくりながら、環境にやさしい村づくりをすることです。ニュージーランドにいたときに養蜂をやっていたので、その経験もいかしたいんです。

コスタリカの平和主義は大胆だと思います。最近アメリカの軍隊が世界でいちばん大きな公害源のひとつだと知ったので、この国に軍隊がないということはますます貴重なことに思えるんです。

日本人の友だちはたくさんいます。日本についてはあまりよく知りませんけど、モダンでありながら、伝統的な文化をまもっていることにとても惹かれます。日本人の同級生も、自国での生活はストレスが多いようですけど、伝統文化の美しさにはありがたみを感じているようです。

日本の若い人たちの社会参加についてあまり直接の知識はありません。でもグリーンピース・ジャパンで働いたことがある日本人の友人に意見をきいたことがあります。彼女がいうには、日本の若者は受験勉強に忙しすぎて、自分のことすら考えるひまがない。ましてや環境問題や社会問題について考える余裕などないということでした。でもこの前のサンホセの集会には何人か来てくれましたよね。

(インタビュー2019年10月19日)

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