
「これから左翼は経済面でも社会面でも民主主義をさらに拡大していくために努力するべきだと思います。」
コスタリカには、国連から退職したひとが多く住んでいて、ふた月にいっぺんぐらいだれかの家で集まります。ヴラディミールに会ったのは、そういう会合のひとつでした。もうかなり年配のコスタリカ人の元国連職員の伝記が出版され、彼の家で行われた会合でヴラディミ―ルがその本について話をしたのです。
伝記は「コム二スタ」(共産主義者)という題名で、この元国連職員の共産党員としての活動に焦点を当てていました。
ヴラディミールの話は、ふつう読んだり聞いたりするコスタリカ史とは視点がちがっていて、興味深いものでした。たとえば、ホセ・フィゲレスは軍隊を廃止した偉大なリーダーとしてコスタリカ国内でも国外でもあがめられがちです。でもヴラディミールは、フィゲレスは当初は独裁者だったとはっきりいいました。そして共産主義者を厳しく弾圧した、と。
彼がコスタリカでは著名な歴史学者であることは、本人に会う前に友人から聞いて知っていました。でもインタビューを依頼してからヴラディミールが送ってくれたビデオを見て、はじめて彼が「民主主義勢力」(Fuerza Democrática)という左翼政党の大統領候補だったこと、第二次アリアス政権のもとでベネズエラ大使だったことなどを知りました。
本と音楽と共産主義思想にかこまれた子供時代
ヴラディミール・デラクルス・デレモス(Vladimir de la Cruz de Lemos)といいます。デラクルスが父方の苗字、デレモスが母方の姓です。1948年、両親とも20歳のときにサンホセで生まれました。ふたりとも共産党員で、レーニンを尊敬していたので彼の名をつけたんです。両親が共産党員になったきっかけは、共和党のラファエル・カルデロン政権時代にあります。
カルデロンは1940年から44年にかけて、社会福祉公庫の設立、コスタリカ大学の創設、労働法の発布などの革新的な改革をすすめました。これはカトリック教会と共産党の同意と協力を得て達成したんです。カルデロンはアメリカの圧力によりドイツその他の枢軸国に宣戦布告し、ドイツ人やドイツ系コスタリカ人の土地や家を没収しました。このため、世論からかなり激しく批判され, 味方を必要としていました。それで共産党がこの改革に参加しやすい状況だったんです。
当時のサンホセの大司教は、カトリック教会の力を弱めていたリベラルな法律を廃止することを条件にカルデロンを支持しました。そして共産党の名前を国民前衛党と変えること、カトリック系の労働組合の設立を共産党側が受け入れることなどを条件に、「共産党員であることは罪ではない」と認めます。
私の父方の祖母のカルメンは大統領官邸の近くでペンションを営んでいて、カルデロ二スタ(カルデロン支持者)でした。祖父母はもともとグアナカステ地方に住んでいたんですが、9人の子供たちの教育のためにサンホセに移住しました。でも会計士だった祖父はサンホセでは仕事が見つからなくて、祖母が大統領官邸に行って、直接カルデロン大統領に夫に仕事をくれるよう頼みこんだんです。カルデロンは祖父を公共事業関係の仕事につけてくれました。それで、子供たちもカルデロ二スタか、カルデロンを支持する共産主義者、いわゆるカルデロコム二スタになったんです。昔は祖父母にならって政党を選ぶというのがふつうでした。
1948年にカルデロン派と、フィゲレス派とのあいだに内戦がおこり、フィゲレス派が勝利すると、共産主義者たちに対する厳しい弾圧がはじまりました。父はベネズエラに亡命したんです。母と私もあとをついて行くはずだったのが、私が病気になって、治療にお金がかかってしまったために私たちはコスタリカに残ることになりました。サンホセの我々の家にも何度も警察が来て捜索していました、共産党関係の書類を母が私のベビーベッドのなかにかくして、そこだけ調べなかったので助かったこともあるんです。
父はベネズエラ人の女性と恋におち、両親は離婚しました。父はベネズエラに生涯のこり、ジャーナリストとして大きな功績を残します。私はベネズエラ人の兄弟が6人いるんです。父とは10年間はなればなれでした。
子供のころ、私は喘息ぎみでした。医者に健康のためにスポーツをするように言われて、水泳をはじめたんです。競泳をするようになり、アメリカまでトレーニングに行ったりもしました。当時コスタリカではバタフライ泳法が知られてなくて、私がアメリカでならって、はじめて持ち帰ったんです。
母は私を育てながら学校に通い、コスタリカ大学では微生物学を勉強して、卒業後、ロス・ピーノスという大規模な乳製品の協同組合で長いあいだ働きました。だから家では牛乳やヨーグルトを切らすことはありませんでしたよ(笑)。彼女は弾圧にもかかわらず、共産党とのつながりは秘密裏にたもち続けました。当時の共産党のリーダーや思想家たちと親しかったので、私は小さいころから彼らの話を聞いたり、アドバイスを受けたりしながら育ったんです。
母は大の読書家で、私にもいろいろな本を読んでくれました。「ニルスの不思議な旅」をとくによくおぼえています。今でも母が読んでくれた本をもっていますよ。
母と私の住んでいたアパートの下の階に、ニカラグア人のジャーナリスト一家が住んでいました。私は息子たちと大のなかよしで、そのうちのひとりと、どちらがたくさん本を読めるか競争したものです。私はジュール・ヴェルヌが大好きで、彼はもっぱらゼイン・グレーのウェスタン小説ばかり読んでいました。
彼のお父さんはオペラが好きで、毎土曜日コスタリカ大学のラジオ番組でオペラを聴いていました。両家族が集まってよくラジオで音楽を聴いたものです。

学生運動へ
私は高校を卒業する前から学生運動に参加しはじめました。国民前衛党が社会主義青年団をつくったので、私は入団してそこから活動をはじめたんです。学校のなかでキューバ革命、米国がラテンアメリカで推進していた「前進のための同盟」、ベトナム戦争などについて活発に議論していました。もちろん私は社会主義的、そして反帝国主義的な観点からです。私のいちばん最初の公の演説は、1965年のアメリカのドミニカ共和国への軍事侵攻に反対するものでした。コスタリカの若者を代表してラジオで演説したんです。
同じ年に、青年団を通じてソ連に2年間留学する機会を得ました。当時は世界中の共産党員にとって、ソ連はお手本でした。資本主義的なモデルに対抗するための模範だったんです。私にとってはソ連で過ごした2年間はとてもよい経験でした。ソ連には貧困はみられませんでしたし、治安の問題もありません。人びともとても友好的でした。とくに第二次大戦のナチスとの闘いのためにあのように膨大な犠牲を払ったソ連の国民には、本当に畏敬の念をいだくようになりました。
サンホセにもどって、コスタリカ大学に入学し、社会主義青年団にもどりました。そして「大学行動戦線」(Frente de Acción Universitaria)という組織を起ち上げて、大学内部でのいろいろな改革に向けて活動をはじめたんです。教授たちの協力を得られるよう、彼らと学生たち両方の日常的な問題の解決に向けてアジテーションをおこないました。たとえば教授陣の給料をあげることとか、キャンパスの建物の間に屋根付きの通路をつくることとか。雨が降ったときのためにね。
ひとつの大きな目標は、学生連盟の会長や役員を直接選挙でえらべるようにすることでした。というのは、それまでは「統一学生議会」という組織が任命していたんです。1969年にはじめて直接選挙が行われました。
私はとにかく大学をなるべく自由で、さまざまな考え方に寛容なな場所にしたかったんです。あのころは絶えずいろいろな課題について、教室のなかでも、講堂においてでも、ちがった考えを持った学生や教授たちのあいだで面とむかいあって議論していました。私たちの左翼の学生組織のほかにも右翼系の「自由コスタリカ運動」、フィゲレス派の国民解放党系の組織などがありました。でも議論が終わったあとはお互い握手してなかよくしたものです。みんな同級生でしたからね。
でも大学内のこういう自由で、お互いの考えを尊重しながら議論をする文化が近年は失われているように思います。最近、公立大学の予算の割り当てについてデモが起こっていて、こないだは学生が道路にガソリンをまいて火をつけたりしたので騒ぎになりましたね。あれはおそらくアナーキスト系の学生だと思うんですが、とくにはっきりした思想はもっていないようです。
フィゲレスの思い出
フィゲレスは内戦に勝利した直後はたしかに独裁者だったんです。その前の選挙に勝ったオティリオ・ウラテをさしおいて、革命評議会の議長になってしまったわけですから。これはクーデターですよ。でも一年半後、その地位を自主的におりました。そしてそののち選挙に勝って、二度大統領になったんです。彼はコスタリカ社会の民主化を大きく前進させました。偉大なビジョンを持ったリーダーです。
私が学生だったころ、フィゲレスがコスタリカ大学をおとずれたことがありました。そのとき友人のひとりが彼に向けて口笛を吹いたんです。フィゲレスは「口笛を吹いたのは誰だ?」と聞きました。友だちが「ぼくです」というと、フィゲレスが彼に平手打ちしたんです。その晩フィゲレスはラジオでこの事件についてこう語りました。「大統領に向けて口笛をふくのには賛同する。でも私のような年寄りに無礼なまねをするのは許さん。」

大統領候補からベネズエラ大使に
90年代にはいって、共産圏が崩壊して、世界中の社会主義運動が目標をなくしてしまいました。コスタリカもそうでした。でも1994年に共産党、国民解放党、そして無所属の左翼の活動家が集まって、「民主勢力」(Fuerza Democrática)という新しい左翼政党を起ち上げました。そして2年後、私に1998年の大統領選挙にこの党の候補者として出て欲しいといってきたんです。
家族とも相談しながら8ヶ月かけて考えました。もしやるなら選挙にいちど出るだけではなく、長期的な運動にしなくては思ったんです。立候補するなら当選するまで何度でもやる気がなくてはね。けっきょく引き受けることにしました。1998年の選挙ではもちろん負けましたが、議員を3人当選させました。それから2002年、2006年と3回立候補したんです。
この間、選挙運動をしただけではなくて、ほかのいろいろな政治活動にも参加していました。たとえば有名な「ICEコンボ」への反対運動ではリーダーのひとりでした。ICEコンボというのは、社会キリスト教党のミゲル・アンヘル・ロドリゲス政権のもと、国家電力公社ICEを民間投資に開放することを含む3つの法案でした。これを政府が押し通そうとして、大きな反対運動がおこったんです。最終的には憲法法廷が違憲だという判決をくだしたので、棚上げになりました。
2006年の選挙ではオスカー・アリアスが二度目の政権を勝ち取り、Fuerza Democráticaも内輪もめでばらばらになりつつあったんで、もう政治活動からはしりぞくことにしました。
そのころ母が亡くなったんですが、アリアス大統領が斎場に追悼に来てくれたんです。自分で車を運転してね。それにお悔やみをいうだけでなく、2時間ものあいだ私と家族といっしょにすごしてくれました。
アリアスとはとくに親しかったわけではなく、大統領選挙においての競争相手というだけの関係だったんです。それに、アリアスが企画大臣だったときに、大学への予算の割り当てを減らそうとしたのでひどく批判したこともありました。だからこの特別な行為にはとても感謝しています。
2007年の12月に私がアメリカに住んでいる息子にあいにいっているとき、アリアス大統領から電話がありました。ベネズエラ大使になって欲しいと言ってきたんです。「私はあなたがどういう人物か知っているし、あなたの経歴も知っている。ベネズエラのチャベス政権もどういう政権だかよく知っている.大使にはあなたが最適だと思う。」というんです。
家族と相談して受けることにしました。私はチャベス政権を支持していましたし、ベネズエラの兄弟としばらくいっしょに過ごす機会でもあったのでね。飛行場に行く途中で、大統領と外務大臣から電話がはいりました。、コスタリカがその次の週に開かれる、ペトロカリベの会議に出席するようにしたいので手配してくれといいます。ペトロカリベは、チャベス大統領の提案で設立された、中米・カリブ海地域におけるエネルギー政策の調整とエネルギー産業発展のための協力機構です。
私は木曜の晩にカラカスに着いて、ペトロカリベの会議は次の週の金曜にはじまる予定だったので、時間がほとんどありませんでした。それに、大統領に信任状奉呈をするまでは公の場にはでられません。でもそこでベネズエラ人の兄弟のコネが役だったんです。彼らのうちのひとりが、当時の外務次官の右腕として働いたことがあったので、彼に次官の直接の電話番号をもらって、すぐに電話しました。ペトロカリベ会議への出席の要請を伝えると、「書面でだしてください」といいます。それでさっそく手紙を書いて、土曜日のベネズエラ独立記念日の式典に出席する予定のスタッフに、外務次官に直接手わたすよう指示しました。おかげでベネズエラ側はコスタリカの出席を承諾してくれたんです。
信任状奉呈の日は、ほかに何か国もの大使がいるのでチャベス大統領との対面はほんの15分ということになっていました。それで私は自分が挨拶する番になったとき、チャベスの興味を引くためにこういったんです。「チャベス大統領、提案があります。来年の3月、ベネズエラの外務省で、コスタリカのフアン・ラファエル・モーラ大統領によるラテンアメリカ初の北米帝国主義の打破を記念しようではありませんか。」
コスタリカ軍が、アメリカ人傭兵ウィリアム・ウォーカー率いる軍隊に勝利したときのことです。チャベスはこのことをまったくしらなくて、びっくりして私にいろいろと質問しました。おかげで50分いっしょにすごすことになったんです。しかもそれから2週間後、チャベスが反帝国主義思想について演説したときにウォーカーとの闘いについてふれました。そしてベネズエラ政府が帝国主義と戦ったラテンアメリカの英雄たちについて本をだしたんです。モーラと、ウォーカーとの闘いのもうひとりのヒーローのフアン・サンタマリアがふくまれていました。
でも二国間の関係はむずかしいものでした。アリアス大統領はたびたびチャベスを批判し、国際会議の場でも両国の代表団は衝突することがありました。それで結局、コスタリカのペトロカリベへの加入はベネズエラがこばみました。私はコスタリカからビジネスリーダーたちを大勢ベネズエラに連れて行って、貿易を拡大しようと試みたんですが、だめでした。ベネズエラ側のキャパシティー不足と汚職が原因です。たとえば送り状を実際より40パーセント割り増しして出すよう要求したり。それでコスタリカ側が拒んだんです。
私はチャベス支持派としてベネズエラに赴任しましたが、チャベスの権威主義的なやり方を見て、離任するころには反チャベス派になっていました。
コスタリカの将来
私はもう特定の政党には加盟していませんが、今でも自分は左翼の人間だと思っています。そして選挙のときは左翼の候補者に投票しています。でも今の左翼運動はばらばらで、はっきりとした目標やどういう社会を求めるかというビジョンもありません。
コスタリカではこれからは政党というより、大きなブロックによって政治を動かしていくべきではないかと思います。伝統的な左翼系、社会民主主義系、社会キリスト教系、新興キリスト教系、というふうにね。そして共通の目的によって、同盟をつくっていくんです。私は右翼のひととだってよろこんで話をしますよ。これから左翼は経済面でも社会面でも民主主義をさらに拡大していくために努力するべきだと思います。
今コスタリカはいろいろな問題に直面しています。大きな財政赤字、貧困が増えつつあること、高い失業率。とくに女性の失業率が高いので、女性が世帯主の家庭が多いコスタリカでは大きな問題です。でも私はコスタリカの将来は暗くないと思うんです。今まで教育や保健医療へのアクセスを広げ、サービスの質も向上させてきました。男女の平等についても前進がみられます。コスタリカの民主主義は強化されていくと思います。保守的な方向にいく危険もありますけどね。でも国をよい方向へ持っていく努力はなされていると思います。問題は人びとにこれがはっきり見えなくて、目標があきらかでないということです。
私は子供が4人います。男3人と女ひとりです。社会主義者はひとりもいません。みんなどちらかといえばリベラルですね。自由にそだてたんです。ただ社会に関心をもち、正直でよい人間であるように、そして人を使うときは人権を尊重するように教育しました。みんなそのように育ってくれたと思います。
私が子供のころ、父方でも母方でも祖父母や親せきたちがよく集まって、とても愛情深い関係をたもっていました。男どうしでもキスし合っていました。そしてみんなが集まるたびに、家族の歴史や思い出について話し合ったものです。だからもう何年も前に亡くなった先祖でも、今にでもやってきて、いっしょにテーブルをかこむように思えていました。今でもこの伝統はたもつようにしていますよ。
日本の社会についてはとてもよい印象をもっています。とくに第二次大戦にあのような悲劇とトラウマを経験しながらこれを乗り越えて、工業面でもテクノロジーの面でも世界的な大国になったのは本当にすばらしいことです。政治面でも、国際的な紛争解決にむけてバランスのとれた姿勢をとっていると思います。
(インタビュー2019年11月29日)