貧困者たちの声:ラリー

ニカラグア人移民の町、コスタリカのラ・カルピオ
右から3人目がラリー

「ほかの人の模範になりたいと思ってます。それに大勢の人を助けたいんです。ぼくもいろんなひとに助けられたようにね。人生のボクサーになりたいんです。ボクサーであるためにリングはいりません。毎日いろんな問題に立ち向かってボクサーのように戦っていますから。」

前回はコスタリカにおける貧困と不平等についてお話ししました。今回と次回は、実際に貧困のなかで暮らす人びとの声をお届けします。彼らの物語は、私がは国連で働いていたときに、国連開発計画(UNDP)事務所が出版した「仰向けの猫のように」(Como Gato Panza Arriba)という報告書からとったものです。

この報告書は、コスタリカ各地で貧しい暮らしをしている、さまざまな背景の12人の男女のストーリーを語ります。「仰向けの猫のように」というのは、スペイン語で、猫がひっくり返って、爪をだして敵をひっかくように、必死に自分を守るという意味です。貧しさに立ち向かいながら、けんめいに生きる人たちの様子をあらわしています。コスタリカ人のジャーナリストと社会学者とフォトグラファーがチームを組んで取材を手がけました。こちらのウェブサイトに、インタビュー記事のほかにラジオ番組や動画も掲載しています。

今回は、首都サンホセのとなり町、ラ・ウルカのラ・カルピオ地区に住むラリー・オリーバス・セアス(Larry Olivas Seas)のストーリーをご紹介します。ラ・カルピオはニカラグア人移民が多く住んでいる区域で、スラム街、犯罪が多くて危険な場所というイメージがあります。でもラリーやそのほかの多くの住民にとっては大事なふるさとです。

暴力は「男らしさ」

ぼくはサンホセから北に90キロほど行ったシウダー・ケサーダで生まれて、1,2歳のときにラ・カルピオに移ってきました。今26歳です。

両親はふたりともニカラグア人です。父は家から家へいろんなものを売り歩く商売人で、母はあちこちで家政婦をやっていました。

ぼくが子供のころは道路が舗装されていなくて、雨が降ったときは友だちと泥んこあそびをしていました。そのころからぶっそうな町でしたけど、近所のひとたちはみんな知り合いだったんで、身の危険を感じたことはありませんでした。

ぼくが住んでいる区域は「小さな大都市」(La Pequeña Gran Ciudad)といって、ここには若者があつまるラ・エスキーナ(かど)という場所があります。「小さな大都市」の中心みたいなところです。

ラ・カルピオの幼稚園にはいったとき、臆病だったので自分からほかの子に話しかけられなくて、同級生たちもぼくを仲間はずれにしていました。おやつの時間にはみんないっしょに食べて、ぼくだけがすみっこでのけものになってたんです。それで、「みんながぼくに話しかけるようになって、ぼくが幼稚園のいちばんの人気者になるんだ」と決めたんです。そしてある日みんなのおやつをとりあげて、「ぼくを仲間にいれてくれたらおやつを返してやる」といいました。それからみんなと友だちになったんです。

9歳のときに、ニカラグアとの国境の近くのウパラに家族が引っ越しました。ひとつうえの兄貴がぐれはじめたからなんです。でもかえってワルくなってしまったので、3年後にまたラ・カルピオにもどってきました。そのときぼくは六年生で、学校にもどってみると友だちは変わっていました。タバコを吸ったり、どろぼうしたり。大きくなっても勉強もせず、仕事もせず、今はドラッグをやっているやつもいます。小さいころから生活をともにしてきた連中なんで見ててつらいです。

ぼくは小さいころから働くのが好きで、いつも自分でお金をかせいで自分のものを買うようにしてました。15歳ぐらいのころ家具屋の主人が、ぼくがいつも働いているのをみて、店を手伝わないかとさそってくれました。それで午後に学校に行って、朝は家具屋で仕事をするようになったんです。

店の主人とは友だちになって、とてもいい関係だったんですけど、彼はぼくをなぐるんです。やめろ、というとふざけてやってるだけだといってやめません。それにだんだん慣れてきて、自分でも暴力をふるうようになりました。学校でいつもぼくからお金をとりあげる子がいたんですけど、ある日おし倒してやりました。それがはじめてのけんかです。それ以来ますます乱暴になっていったんです。暴力をふるうことによって自分がもっと男らしくなったように感じていました。

ラ・カルピオの若者たちの会社が作ったTシャツ

銃撃戦で人生が変わる

中学校から高校はサンホセの学校にはいりました。ラ・カルピオから来ている生徒もたくさんいて、ぼくはグレた連中といちばん仲良くしていました。一年目は、けんかしたり先生にくちごたえしたりで4,5回停学になったんです。

勉強もむずかしくて、一年目に落第してしまったので、両親に働きに出されました。サンホセの北のサンラモン県でコーヒー摘みをさせられたんです。小さいころから毎年、収穫時にひと月のあいだみんなで働いていてたんですけど、このときは泣きました。母は「落第してよかった、みんなでコーヒー摘みに行こう」というんです。ほかの子の親は学校に子供の通信簿をうけとりに行くのにぼくの親はいちども行ったことがありませんでした。全然ぼくのことを助けてくれなくて、自分がひとりぼっちのように感じたんです。

ある日、すごく暑いなかコーヒーを摘んでいて泣き出してしまいました。父が通りかかって、「どうしたんだ」と訊きます。「パパ、もうこんなことは続けたくない。勉強したいんだ。一生この生活を続けたくはないんだ」といいました。母は「ほっときなさいよ」といいましたが、父は、「安心しろ。もう一度チャンスをやるからがんばりなさい。お前が必要なものを買えば学校にもどっていい」と言ってくれたんです。

言われたとおり靴やかばんや勉強道具を自分で買って、学校にもどりました。まだ態度は生意気なままでしたけど、度を越さないように気をつけて。ちゃんと授業に出て先生の講義を聞いていました。でも勉強はむずかしくて7年生と8年生(中学1年と2年)は二度やらなくてはなりませんでした。

9年生(中3)にはいってから人生が変わりました。ある日、ロス・アンヘレスというギャングの連中といっしょにドラッグをとりにいったときです。彼らが敵に回したほかの全部のギャングに囲まれてすさまじい銃撃戦がはじまったんです。そこら中を弾がとびかっていました。すごく怖くて、近くの教会の階段の下にかくれました。そして泣きそうになりながら祈ったんです。「神様、もしここから生きて出してくれたらもうこんなことはやめます。二度とグレません。がんばります。約束します。」祈り終わったと同時に撃ち合いも終わりました。それから本気で勉強するようになったんです。

いい成績をとるようになったんで両親はびっくりしていましたけど励ましてはくれませんでした。そのころじゃかごを作るアルバイトをしていてその同僚たちの方がよっぽど励ましてくれました。「がんばれよ、ラリー。俺たちはお前を信じてるぞ。がんばって、お前の友だちのためにも手本になって、あいつらも前に進めるようにしてやるんだ」と言ってね。じゃかごを作るための石一個一個がぼくにとっては意味がありました。石を一個つむごとに自分が強くなって、前進できるように思えたんです。

10年生(高1)になって、フンダシオン・アクシオン・ホベン(Fundación Acción Joven=若者アクション財団)の人たちに出会いました。みんなのたまり場のラ・エスキーナで会合をやったんです。彼らはりっぱな車に乗ってきたんで警察かと思いました。ぼくは最初みんなに「相手にするな。どうせ期待だけさせてあとは何にもしないに決まってるんだから」といったんです。でも彼らのうちのひとりが言ったことが気にいりました。「ラ・カルピオの人たちの自己イメージを変えたいんだ。ちがった視点をつくりたいんだ」というんです。ぼくはいつも普通じゃないこと、できそうもないことが好きだったんで、この言葉が気にいったんです。

フンダシオンの人たちは、ぼくらが自分たちで会社をはじめては、と提案してきました。衣料品の工場を作ろうというんです。金もうけのためにするだけではなくて、家族を助けて、ぼくらの教育にも役立てるという計画でした。これは一生にいちどの機会だと思いました。

まずどういうふうに人に接するかについての授業を受けたんです。ボディーランゲージもふくめて、どういうふうに話してどういふうにものごとを表現すれば人を怒らせないか、あいさつの仕方、食べ方まで教わりました。

高校卒業書を持って

「負け犬」から大学へ

学校では成績はよかったんですけど「素行」だけいつも低い点ばかりで100点中30だったときもあります。でもフンダシオンの人たちや先生やガールフレンドのおかげでだんだん変わっていきました。ガールフレンドはミシェルといって。9年生のときに付き合いはじめて今でもいっしょです。

先生たちのなかでもカウンセラーのアディという女の先生がとくに熱心にたすけてくれました。ときどき給食代までだしてくれて。「ねえラリー、がんばって変わるのよ。私はあなたのことが大好きよ。今までもこの学校ですごくがんばってきたんだから。」といってくれました。ぼくは彼女には母親に対するのと同じような愛情を持ってます。

そして気が付いたら変わっていたんです。先生たちにもちゃんと挨拶するようになりましたし。10年生のときに「素行」ではじめて100点満点をとりました。でもスペイン語と数学を落第してしまって、学年をやりなおさないために試験を受けなくてはなりませんでした。母に話したら、「落第したんだからもう勉強はやめなさい。あんたは負け犬よ。」というんです。ぼくは泣きながら応えました。「ママがどういおうとぼくは受かるよ。受かって高校を卒業するんだ。」

安心して頼りにできる人間がいなかったからがんばれたと言えるかもしれません。でも自分が努力しようと思ったときに両親に背を向けられたのは、今までの人生のなかでいちばんつらいことでした。

高校の最後の年は全部の科目を合格しました。そして高校の卒業試験にも合格したんです。先生たちにもよくやった、ほかの子たちのお手本だ、と言われました。校長先生は、「君が卒業生になってくれるのはこの学校にとって大変な名誉だ」とまでいってくれたんです。

2014年に卒業しました。 卒業式にはひとりで行きました。両親はいってくれなかったので。

子供のために学校があるように、大人むけにもよい親になるための学校があったらいいと思います。

ラ・エスキーナの仲間たちはひとりも高校を卒業しませんでした。ぼくだけです。親たちのあいだではぼくがいちばんワルだと思われてたんですけどね。でも今は神様にあたえられた目的があるんだと信じています。だってずっとまわりからバイキンのようにあつかわれて、学校でもきらわれものだったのに、今は尊敬の目でみられてるんですから。

ぼくは何よりも神を信じます。神様のおかげでラテンアメリカ科学技術大学の奨学金を受けることができました。フンダシオンやぼくたちの会社からも資金援助があります。情報科学エンジニアリングを勉強しています。テクノロジーとか数学はいちばんにがてな分野なのでこの道に決めたんです。

会社ではドラッグの禁止などいくつか規則をつくりました。それで規則を守れなかったやつが何人かやめさせられました。それから学校でもいい成績をたもたなくてはなりませんでした。ぼくはドラッグをためしたことはありますけど怖いのでやりません。友だちが何人かドラッグのために人生をダメにしてしまったのをみてるので。

シルクスクリーンの研修を受けて、シャツの作り方やデザインも教わりました。だれも信じでくれない貧しい町のはじめての会社が成功できるかどうかの試しどきです。まだ代理店はみつかってないんですけど以前よりたくさん売れてます。

ほかの人の模範になりたいと思ってます。それに大勢の人を助けたいんです。ぼくもいろんなひとに助けられたようにね。人生のボクサーになりたいんです。ボクサーであるためにリングはいりません。毎日いろんな問題に立ち向かってボクサーのように戦っていますから。

ぼくの子供時代と青春時代をずっとラ・カルピオで過ごしました。悪いところもありますけど、ぼくにとっては素敵な場所です。今までの人生の最高のときをここで経験しています。ラ・カルピオ出身だということをけっして恥ずかしいことだとは思いません。

PNUD Costa Rica, Como Gato Panza Arriba (2015) より

貧困者たちの声:ラリー” への2件のフィードバック

コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください