先住民リーダー、ドリス

コスタリカの先住民、カベカル民族のリーダー、ドリス・リオス

コロナウイルスのパンデミックは人間を現実にひきもどすために起こったのではないでしょうか。肌の色も、金持ちであろうが貧乏であろうが関係なく人間は平等だということをおもいださせるためです。」

コスタリカの2011年の人口調査によると、この国の総人口490万人の2.4パーセント、約104,000人が先住民です。八つの民族にわかれていて、人口の半分弱が24の先住民領土に住んでいます。

スペイン人の到来以前、北部の民族はメソアメリカのマヤ、アステカ文明、そして南部の民族は南米アンデス地域のチャブチャ文化の影響を受けていたといわれます。

現在のコスタリカでは、先住民の人びとは白人やメスティソとくらべて貧困率が高く、教育など生活を改善する機会にもっとも恵まれない状況にあります。また、白人やメスティソによる先住民領土の侵略が深刻な問題になっています。今日、先住民領土の約38パーセントが非先住民の手に渡っているのです。

さらに先住民についてのデータに関心のある方はこちらへ。

ドリスとの出会いは2012年の終わりごろでした。当時、私はコスタリカの国連常駐調整官として、政府と先住民リーダーたちとの間の対話を支援していました。その一年以上前に、コスタリカ電力公社(ICE)が南部のブエノスアイレス地域で大型ダムの建設に向けて準備をはじめ、地域の先住民たちが反対運動を起こしたのです。そのためダム計画は中断され、国連とオンバズマン事務所の仲介により、対話がはじまりました。ドリスは、ブエノスアイレス周辺のいちばん小さな先住民領土チナ・キチャの代表として対話に参加していました。先住民側の唯一の女性代表でした。

神シブーと自然に守られて

ドリス・リオスといいます。カベカル民族の領土、チナ・キチャに住んでいます。チナ・キチャはカベカル語で「オレンジの木の根」という意味です。1956年に先住民領土として認められたのですが、1982年に不当に認知が取り消されてしまいました。

私の家族はチナ・キチャの出身です。でも1970年に父方の祖父母が農地を求めて、カリブ海側のタラマンカにあるカベカル領土に移ったので、私の両親もついて行きました。私はそこで1976年に生まれました。14人兄弟の5番目です。

両親は1986年に子供たちをつれてチナ・キチャにもどってきました。私にとってはまったくちがった世界に入り込んだようでした。タラマンカにいるときは、カベカル民族の文化に従って生活していました。学校に裸足で通ってもだれも何もいいません。でも当時のチナ・キチャは先住民でない住民が大半で、私たちのことを差別していました。それにあのころはみんな、先住民として独自の文化や領地をもつ権利があるという意識があまりなかったんです。

カベカル民族は母系制で、私たちの文化は母親を通じて代々つたえられます。私たちの神様はシブーです。シブーがトウモロコシの種を地に振りまいて、そこから人間が生まれました。カベカル文化の特徴はほかの民族より社交的でとても朗らかなところでしょうか。

もうひとつの特徴は自然とのきずなです。私もこのつながりをとても強く感じます。今年の3月7日の晩、空を見上げていたら月が私に話しかけてきました。何を言っているのかよくわからなくて問いかけると、息子が、「お母さん、ひとりごといったりして頭がおかしくなったの?」といいます。月は「これから大変な試練がやってくる」と私につたえたのです。するとそれからちょっとして地震がありました。息子が「大変なことってこのこと?」と聞きましたけど、そうではなくて、地震は自然が私たちの側にたってくれるというメッセージだったんです。

大変な試練というのは、次の日に起こった白人の地主たちによる襲撃でした。ちょうど朝ごはんを食べ終わったころ近所に住む知り合いから電話がありました。「なんだか変よ。大勢ひとが集まってこちらに来るのが見えるの。250人ぐらいかしら。なんか悪い予感がするわ」というんです。3分後にまた電話してきて、「あなたの妹の家に火をつけて今あなたの両親の家の方に向かってる」といいます。

さいわい妹はそのときでかけていたのですが、私は息子たち二人と弟と甥、そして女ともだちひとりといっしょにすぐ両親の家に向かいました。でもその途中でどういうわけか、「もどらなくては」という気がしたんです。それで急いで自分の家にもどったら14人の男が私たちの土地にはいりこんでいました。家の窓をこわして、お鍋や食器をそこら中に放り投げています。私たちを見ると襲ってきて、ひとりが息子をナイフでさそうとしました。

ところがきっとシブーが助けてくれたんでしょう。6人だけで14人を追い払うことができたんです。でも妹と両親の家と畑が焼かれてしまいました。

コスタリカのカベカル民族領土、チナ・キチャ
チナ・キチャ

先住民の権利に目覚める

私は17歳で先住民ではない男性といっしょになって、4年間チナ・キチャを出て、アラフエラで暮らしました。でも彼がお酒を飲んで暴力をふるうようになったので、22歳のときにわかれてチナ・キチャにもどりました。そして領土回復運動に参加しはじめたんです。

その数年前、チナ・キチャの学校に新しい先生が赴任してきました。彼は先住民ではなかったのですが、チナ・キチャの歴史についていろいろ勉強していて、以前カベカル民族の領土だったことを知ったんです。それで長老たちを集めて、領土をとりもどす運動を起こしては、と提案しました。それから再びチナ・キチャをカベカル民族の領土として法的に認めさせる運動がはじまりました。

私がチナ・キチャにもどったころはもう領土回復のための委員会ができていて活発に運動していました。この運動に加わることは私にとってはまるで恋に落ちるような経験でした。「これが私の道なんだ」と気づいたんです。

とてもむずかしい戦いでした。私は連れ合いとわかれたときには子供がふたりいて、3人目を妊娠していました。畑仕事をし、領土をとりもどす運動に参加しながらひとりで子供を育てました。大変でしたけどへこたれませんでしたよ。

ようやく2001年にチナ・キチャが再びカベカル領土として認められたのです。でも以前は面積が7000ヘクタールだったのが1,100ヘクタールまで減らされてしまいました。それに、そのうち90パーセントが先住民でない地主の手にわたっていたんです。

だから今度はその土地を回復することが目標になりました。国連が仲介した対話でもこれがひとつの大きな課題でしたよね。あの対話のなかで、先住民でない地主の手にわたった土地の回復の道筋について合意しました。

そして、2017年に非先住民の地主が所有するチナ・キチャの土地について、農村開発庁が調査をしました。その結果どの土地が賠償の対象になり、どの土地が没収されるべきか明らかになったんです。それでもなかなか政府が動きません。私の息子たちもふくめてチナ・キチャの若者たちがもう待てない、自分たちの手で土地を取り戻そう、と言いだしました。私も彼らを支持しましたよ。村の年配の人たちは最初は争いをおそれて反対していましたが、だんだん賛成するひとが増えてきたんです。

4,5か月かけて計画を立てて、2018年に四つの農場を占拠しました。みんなチナ・キチャに住んでいない大地主や会社が持っている農場で、農村開発庁の調査で、没収されるべきだと指定されたものでした。持ち主が自分で畑をたがやしている小さな農家は触らないことにしました。

それ以来、地主たちからおどしを受けていたんですけど、とうとう今年の3月7日に襲撃が起きたわけです。

襲撃には、私たちが占拠した土地の地主だけでなく、ほかの町や村の地主や労働者や浮浪者風のひとも加わっていました。襲撃の数日前にチナ・キチャの地主たちがここから数十キロ南にあるブエノスアイレスの町で、あちらの方の地主たちと集まっていたことはわかっているんです。ブエノスアイレス周辺のほかの先住民領土でも土地をめぐって同じような問題が起こっています。数か月前に先住民リーダーがひとり殺されました。

政府とは、大統領府の市民対話担当の次官と、法務省の平和担当次官を通じて話をしています。襲撃の捜査は今どうなっているのかよく知りません。でも最初のうち警察は証拠がないなんていうんです。私たちはだれがやったかちゃんとわかっているのに。また襲ってこないようにチナ・キチャに警官をおいてくれましたけど、土地の所有権の問題はまだ解決されていません。

こんなことになったのも、政府がこの問題をおろそかにしてきたからです。私たちは、占拠した土地を法的に我々のものだと認めてくれるなら、残りの土地は正式な手続きを通じてとりもどす、と政府につたえました。

アルバラード大統領は今年、先住民領土の土地の回復を公益であるとする大統領法令を発布しました。これは前進だと思いますけど実際行動に移さなければなりません。まだまだやり残されたことがたくさんあります。

コスタリカのカベカル民族領土チナ・キチャの遺跡
チナ・キチャの遺跡。いつの時代のものか、何を意味するのか今のところわかっていません。

今のしあわせ

私は領土回復運動のほかに学校や保健医療の改善にもかかわってきました。2009年に、チナ・キチャの小学校にカベカル語とカベカル文化の先生をおいてくれるように教育省に申請したんです。学校には先住民ではない子供も通っていたので、彼らの親たちのなかには反対する人たちもいました。「そんなことになったら子供たちを退学させる」といいます。私はそれでも「ここはカベカル領土なんだから私たちの言葉と文化を教えるのは当然です。子供を退学させたいならそうしてください」といってひきませんでした。今ではカベカル語とカベカル文化の先生がふたりいます。

コスタリカの農村には普通ADI(Asociaciación de Desarrollo Integral)というそれぞれの村の開発を進める委員会があります。私たちの領土の自治はADIを通じておこなうんです。会長は選挙で選ばれます。私は2011年から2013年まで会長を務めました。国連が仲介した対話に参加したのはそのときです。

リーダーとしての資質はきっともともとあったのだろうと思いますけど、行動を通じて養ってきました。政府の女性庁の研修を受けたのもとても役に立ちました。

私は6年生で学校をやめなくてはならなかったんですけど、大人になってから勉強しなおして、去年高校の卒業証書をとりました。チナ・キチャからバスで一時間半かかって行く夜間学校に通って。午後の3時50分に出て夜中の12時半に帰ってくるんです。大学にも進みたいと思っています。先住民の人権か農業工学を勉強したいですね。

子供は4人います。末娘は15歳で別の父親の子です。長女は大学に通っていて、農業を勉強しています。末娘は高校生です。21歳と19歳の息子がいるんですけど、彼らは高校を終えたあと土地を回復する運動に専念したくて大学には進みませんでした。でもいずれは行くように勧めています。

若いころは人生をずっとともにできる伴侶を夢みていましたけど結局そうはなりませんでした。今はひとりでしあわせです。

私にとってしあわせとは自分で自分のことをきめることです。そして朝ひとりで家をでて歩いたり走ったりできること、ほかの村人たちと話し合ってものごとを共同で決めること、子供たちにかこまれて暮らすこと。

今はコロナウイルス感染防止のためにチナ・キチャはここに住む人以外には閉鎖しています。いまのところ感染者はひとりもいません。幸いみんな農業でくらしているので、食べるものはたりていますけどやはり生活のほかの面でみんな困っています。政府が最近コロナのせいで仕事を失ったり収入が減ったひと向けに助成金を出しはじめました。私たちももらえるはずなんですけど、オンラインで申請しなくてはなりません。先住民のあいだにはインターネットがないひとやスマホを持たないひとがいるので、困っています。それに政府の対策には女性の視点をもっと盛り込むべきです。

コロナウイルスのパンデミックは人間を現実にひきもどすために起こったのではないでしょうか。肌の色も、金持ちであろうが貧乏であろうが関係なく人間は平等だということをおもいださせるためです。だから連帯感をもたなくてはいけません。他者を大事にするために自分を大事にするんです。

(インタビュー2020年4月21日。現在コスタリカでは、コロナウイルス感染防止のため外出自粛勧告が出ているので、このインタビューは電話でおこない、写真はすべてドリスが撮ったものを掲載しました。)

先住民リーダー、ドリス” への2件のフィードバック

  1. Una narración sobria y directa que nos muestra la discriminación que sigue habiendo contra las poblaciones originarias de nuestro continente. Esta discriminación justifica claramente la resistencia y la lucha de los pueblos indígenas. Nadie mejor que ellos para dar ejemplo de solidaridad y para defender la vida en todas sus formas.

    Muchas gracias Yoriko

    1. Hola Jorge Enrique! Gracias siempre por tus valiosos y alentadores comentarios. Ahora los terratenientes han metido ganado en una de las fincas y Doris y sus compañeros están apelando a las autoridades a que lo saquen.

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