
改革を考えるうえで、私たちにとっていくつか重要な原則がありました。まず第一には、コスタリカのすべての人びとに平等に、地域に根差した保健医療サービスを提供する、ということでした。いなかに住もうが都市に住もうが、金持ちであろうが貧乏であろうが、同じサービスを受けることができるということです。
フェルナンド・マリンに出会ったのは、私がコスタリカの国連常駐調整官をつとめているときでした。オンブズマン事務所のマージョリーや、先住民リーダーのドリスのお話にも書いたように、当時、政府と先住民リーダーたちとの間の対話を支援する機会がありました。私が赴任する一年以上前に、コスタリカ電力公社が南部のブエノスアイレス地域で大型ダムの建設に向けて準備をはじめ、地域の先住民たちが反対運動を起こしたのです。そのためダム計画は中断され、国連とオンブズマン事務所の仲介により、対話がはじまりました。その対話で政府側代表団のリーダーをつとめたのが、当時、社会福祉大臣だったフェルナンドでした。
対話はダムの問題だけでなく、先住民の権利の侵害に関連したさまざまな課題にわたり、複雑でむずかしいものになりました。そんななか、フェルナンドは常に冷静に、ひとつひとつの問題に対して具体的な解決策を模索し、提案しました。そして、実行にうつすために政府の重たい官僚組織を少しずつ、でも確実に動かしていったのです。ときによっては、先住民リーダーたちに対してきびしい態度をしめしました。でもそういう場面でも、つねに誠実に、敬意をもってせっするひとでした。
彼がコスタリカの保健医療制度の大きな改革の主導者のひとりだったことは出会ってずいぶんたってから知りました。コスタリカの医療制度は、保健省の監督のもとに社会保障公庫が運営しています。近年とくに財政難のため、質の低下が問題になっていますが、それでも優れた制度として世界的に評価されています。医療サービスは、人口の100パーセントちかくにとどき、コスタリカの平均寿命や乳児死亡率などの指標も先進国に近いレベルです。
社会保障公庫の医療保険に加入していればサービスはただで、自己負担はありません。保険料は、俸給者の場合、本人が給料の5.5%、雇用者が9.25%、そして国家が0.25%払います。困窮者の場合は、政府が費用を負担します。この制度の根幹となっているのが、EBAISという、地域レベルの総合医療基礎チームで、フェルナンドはその発案者のひとりだったのです。
医学生として改革の必要性にめざめる
私はコスタリカ大学の医学部で勉強しました。医学生は、卒業する前に一年間、社会貢献として、地方の病院やクリニックでしごとをすることが義務づけられていました。私はカリブ海側のリモン市の病院と、周辺のクリニックではたらきました。1982年のことです。
シキーレスという町から一時間ほどバスでいった、バナナ農園のなかにあるクリニックで何週間かはたらいたことがありました。常勤の医師が休暇をとるあいだ代理をつとめたのです。毎日大雨がふって、洪水になってしまい、スタッフが二週間これなくなったことがありました。そのため私ひとりで毎日40人ぐらいの患者をみました。けがや病気の治療から出産までいろいろです。夜中に緊急の患者がでて、たたきおこされたこともあります。大変でしたがとてもいい勉強になりました。
このクリニックにつとめて不条理に思ったのは、医師は私しかいないのに、14人もほかにスタッフがいたことです。それも医療とは関係ない事務仕事をする人員が大部分でした。たとえば薬局にはふたり人がいて、救急車もないのに運転手がふたりもいたのです。そのうえ、スタッフはほとんどがシキーレスに住んでいて、バスの都合でおそく出勤して早く帰ってしまいます。
クリニックの予算を調べてみたら、余分なスタッフをけずって、医療に直接従事する人間をもっと雇うのに十分だったのです。
リモン市の病院ではたらいたときは、コスタリカの歴史上いちばん長い医療従事者のストライキの最中でした。ストをめぐって、医学生たちと古くから病院にいる医師たちが衝突しました。私たち医学生はストのために患者たちがほったらかしにされるのはまちがっていると思ったからです。今でも、私は医師のストライキには反対です。人びとに害をあたえることになりますから。けっきょく、医師たちのあいだで交代して、一部がデモなどに参加しているあいだも、必ずだれかが病院にのこって、患者をみるようにしました。
外来患者の診療は午後4時に終わるのですが、なかには早く帰ってしまう医師もいました。患者が列をつくって待っているのにです。遠くから何時間もかかって来る患者もいました。私はなるべく遠くからきたひとたちを先にみて、リモン市に住んでいるひとにはいったん家に帰って、5時か6時にもどってきてくれるようたのんだものです。
当時は、クリニックは各県の首都などの主要な都市にばかり集中していて、いなかに住むひとたちは50キロも60キロもバスにのっていかなくてはなりませんでした。場所によってはバスが一日に一本しかないところもあります。コスタリカは日本のようにどこにでも電車や汽車が通っているわけではありませんから。そのうえ、電話で予約ができなくて、実際に行って予約をとらなくてはなりません。だからしょっちゅう患者たちは長い列をつくって何時間も待たされます。それにいつも同じ医師がみてくれるわけではなくて、いくたびにだれが当たるかわかりません。患者を呼ぶときも名前ではなくて番号で呼んでいました。とても非人間的なあつかいです。スタッフの態度もつっけんどんだ、と苦情がやみませんでした。
同僚のなかに、一時間に50人の患者をみていたのがいました。ある病院では前もって処方箋を書いて、つくえの引き出しにしまっている医師にも会いました。患者が座るひまもなく、「あなたどこが悪いの?あ、じゃこれ飲んで」と、処方箋をわたしておしまいです。
こういった経験から、コスタリカの保健医療システム、とくに患者への医療サービスの提供のしかたを変えなくては、と思うようになりました。

最初のEBAIS
医学部を卒業してから、奨学金をもらってコロンビアの大学に留学しました。公衆衛生行政をまなぶためでした。そのとき、のちにコスタリカ大学の医学部長をつとめたマウリシオ・バルガス医師といっしょで、留学しているあいだ、彼とつねにコスタリカの保健医療制度の改革のしかたについて議論していました。
帰国してからは、コスタリカ大学に新しく設立された、予防医学の講座を担当することになりました。現在の公衆衛生学部のさきがけです。それから少したって、社会保障公庫のミランダ総裁が、コスタリカ大学の医学部に、保健医療制度改革の草案づくりを依頼しました。イギリスのようなファミリー・ドクター制度をコスタリカにもとりいれたいというのです。私は、イギリスと同じ制度を短期間にコスタリカに導入するのはむずかしいし、コスタリカにとってもっと適切な制度があるはずだ、とこたえました。そして私たちに提案をつくらせてくれるよう頼んだのです。
もうすでにコロンビアにいるころからバルガス医師と改革案づくりをすすめていたので、一、二週間のうちにプロポーザルをだすことができました。
改革を考えるうえで、私たちにとっていくつか重要な原則がありました。まず第一には、コスタリカのすべての人びとに平等に、地域に根差した保健医療サービスを提供する、ということでした。いなかに住もうが都市に住もうが、金持ちであろうが貧乏であろうが、同じサービスを受けることができるということです。
ふたつめには、コスタリカの主な保健医療問題に適切に対応するということ。それから三つめには、それまであまりにも治療にばかりにかたよっていたシステムをもっと予防と健康教育に向けることでした。
当時は、保健省が予防活動を担当していて、社会保障公庫が治療の責任をになっていました。でも保健省は予算が少なく、十分なしごとができていませんでした。それにふたつの組織がばらばらに活動していたのです。たとえば、同じ村に行くのに保健省の医師が社会保障公庫の車にのれなかったり。だから同じチームが同じ場所で治療も予防も健康教育も総合的に提供できるようにするのも目標でした。
最終的に、一般医ひとり、プライマリ・ヘルスケア(基礎的保健医療)技師ひとり、そして看護助手のチームで、一般的な問題の75から80パーセントには対応できるという結論にたっしました。このチームを総合医療基礎チーム(Equipo Básico de Atención Integral en la Salud= EBAIS)と呼ぶことにしました。今ではみんなこれらのチームがが働いているクリニック自体もEBAISと呼んでいます。このEBAISを国中にひろめる提案をしたのです。これは、既存の予算と人的資源を公平に配分しなおし、足りない人員は新しくやとうか訓練しなおすことで可能だと考えました。理想的には人口三千人につきEBAISをひとつ配置したかったのですが、すぐには無理なので、とりあえず四千人にひとつという提案でした。
また、薬剤師とか看護師とか歯科医などの専門職種は、EBAISへのサポート・チームとして、保健区域ごとに配置する考えでした。保健区域というのは、行政単位でいうと、カントン(市)とほぼかさなります。EBAISが四千人にひとつだと、サポート・チームは二万から二万五千人にひとつおくのが適当だと考えました。
まず、この案をためすために、パイロット・プロジェクトを計画しました。そしてEBAISのパイロット版は、社会保障公庫や保健省のスタッフを使うのではなく、別の組織を組まなくてはならないと考えたのです。社会保障公庫はあまりにも官僚的で、そのために予算がかかりすぎてしまいます。そして過去の経験から、このふたつの組織のスタッフがうまく協力できるとは思えなかったのです。でも、スタッフの給料もふくめて、EBAISの予算は社会保障公庫と保健省からでることになります。
社会保障公庫が、イギリスからアベル・スミスという有名な公衆衛生の専門家をつれてきて、ある日、私が彼と社会保障公庫の幹部に私たちの提案を説明することになりました。スミスは、「それはイギリスの制度とちがう」といい、社会保障公庫の幹部たちは笑いました。彼らは、社会保障公庫と別の組織をつかうという考えが気にいらなかったのです。
この会合が終わってすぐ、EBAISを運営するのにどういう組織をつかうべきか調べるために本屋にいきました。昔からある、法律書を専門とした書店です。当時はインターネットがありませんでしたからね。民間企業ではなく、何らかの社会的な意義のある組織でなくてはならないと思いました。それで、「社会的組織法」の本を買い、その晩、ぜんぶ読み通したのです。この法律にふくまれているさまざまな組織のなかでは、「自己運営協同組合」、つまり従業員たち自身が運営する協同組合がいちばん適当だという結論にたっしました。
数日後、ミランダ総裁に再度、我々の提案をくわしく説明することにしました。スミスとの会合では私の発言を支持してくれなかったので、私は面談に参加しない方がよいと思い、会議室の外で待っていました。ながい会議でしたが、同僚たちはようやく出てくると、みんな嬉しそうに抱き合っています。総裁がまれにみるすばらしい提案だといってくれたのです。
実施にむけては、社会保障公庫の労働組合の反対ものりこえなくてはなりませんでした。組合や共産党、社会党は、私たちのやろうとしていることは保健医療制度の民営化だというのです。でもそうではありませんでした。もともと協同組合形式をとる、というのは、新しい保健医療サービスの方法をためし、今までとちがった、よりよいやり方が可能だということをしめすのが目的でした。すべてのEBAISを協同組合にするつもりではなかったのです。じっさい、現在は、ほとんどのEBAISは社会保障公庫が直接運営しています。協同組合形式をとっているのはほぼ10パーセントだけです。
最初の実験的なEBAISを配置したのは、サンホセにあるパバスという区域でした。農村部から移住してきた人びとが住む、貧しいスラム街です。私が住民たちとの交渉を担当したのですが、最初のいくつかの会合には社会保障公庫の組合員たちが大勢やってきて、私にはまったくしゃべらせてくれませんでした。とうとう、住民のリーダーたちに、何もいわせてくれないのなら、私が来る意味がない。なんなら組合のひとたちに、私に質問していたことを聞いてみてはどうか、と提案しました。すると彼らは組合員たちに、EBAISについていろいろ質問しはじめました。今までの医療サービスに関しての苦情もでます。そして、まともに働かない組合員にたいしてはどういう制裁をあたえるのか、とききます。それ以来組合員たちは会合に出てこなくなりました。
1987年の終わりに正式に協同組合を組織して、EBAISが機能しはじめました。私も医師として参加しました。ところが次の年にはいって、国家監査局が待ったをかけたのです。協同組合形式をつかうのは民営化であり、不法だというのです。さいわい、当時のアリアス大統領の支援もあって、三ヶ月ほどで、法的に協同組合形式をつづける解決策を見つけることができました。でもそのあいだ、協同組合のスタッフに給料を払うことができなかったのです。そのため、私もふくめたスタッフの一部は、直接社会保障公庫の職員として臨時にやとってもらいました。でも全員ではありません。それで社会保障公庫から給料をもらっているものたちが協同組合のほかのスタッフとわけあうことにしたのです。チームが連帯感を発揮した、とてもいい経験でした。
実は、アリアス大統領はパバスでなくて、彼の両親の出身地のエレディア県のバルバ市で最初のパイロット・プロジェクトを実施するよう指示していました。そして、そこのクリニックは協同組合形式をとらず、医師たちが協会をつくり、この協会と、社会保障公庫と保健省がぜんぶクリニックの運営にかかわっていたのです。チームとしてまったく機能せず、失敗に終わりました。そしてその10年後、協同組合に変わったのです。
パバスでは、人口にもとづいて社会保障公庫から予算をもらい、地域の必要に応じて治療、予防、そして健康教育活動に自由に使うことができました。おかげで、病院に行かなくてはならない患者の人数をへらすこともできたのです。現在は社会保障公庫と、協同組合とのあいだの契約制になっていて、以前のように自由にイノベーションをすることができなくなっていしまいましたけどね。
1988年から89年が試験期間で、私は1992年までパバスのEBAISではたらきました。プロジェクトが発足して一年後、大統領と保健大臣をまねいて、パバスの人びととの集会をひらきました。住民たちはとても満足していて、ぜひ続けてほしいといったのです。
(次回に続く)