コスタリカの医療改革のリーダー、フェルナンド・マリン(2)

パバスのEBAISの院長時代

「これは多くのひとがかかわった、コスタリカの国家としての成果です。アリアス政権のもとでパイロット・プロジェクトがはじまりましたが、ふたつの野党政権のもとでも改革はすすめられました。改革計画の実施にむけて、世界銀行と米州開発銀行の融資がありました。この融資はカルデロン政権が交渉したのですが、世銀との協定は、フィゲレス政権のもとで調印されたのです。」

全国的な改革に向けて

アリアス政権の次には野党の社会キリスト教連合が勝利し、ラファエル・カルデロンが大統領(1990-1994)になりました。でも私は新政府からも、保健医療システムの改革をてがけるチームにまねかれました。当時、公衆衛生の専門家はあまりいなくて、政権にかかわらず、同じ人たちが始終よびだされていたのです。

1992年にはいって、もう次の大統領選挙に向けての動きがじょじょにはじまっていました。国民解放党の候補者をねらっていた政治家たちのなかにホセ・マリア・フィゲレスがいました。パバスのEBAISはもうそのころはかなり有名になっていて、いろいろな政治家がおとずれましたが、時間をかけてじっくり話を聞いていたのはフィゲレスだけでした。彼はこのプロジェクトがすっかり気に入って、何度ももどってきました。EBAISのガードマンとなかよくなって、土日にも見に来たほどです。そしてある日、私に、「もし私が大統領になったら、EBAISを国中に広げてほしい」といったのです。

それで、カルデロン政権のしごとをしながら、フィゲレスの保健医療改革案の作成にもかかわることになりました。そして彼は当選することになるわけですが、その二年前に、改革計画ができあがっていたのです。計画を作成するあいだ、フィゲレスは専門家チームと週にいちど話しあっていて、大統領に就任するまでには私たちよりも改革計画をよく理解していました。

フィゲレス政権のもとで、私は保健副大臣として、EBAISのモデルにもとづいた保健医療サービスの改革を担当しました。保健省と社会保障公庫の幹部のあいだでひとつのチームをつくり、まず最初にへき地のコミュニティーへのEBAISの配置をてがけました。サンホセから始めるようにというプレッシャーもありました。でも私はこの仕事を引き受ける条件として、遠隔地からはじめて国の中心部にすすめていくことを要望したのです。そうしないといつまでたっても遠方のコミュニティーにはサービスがとどかないと思ったからです。

ひとつ重要なステップとして、国中をまわり、EBAISを全国に広めるにあたって、どういう設備をおくべきか調査しました。地域によっては、婦人科の検査用のベッドや体重計など、ごく基本的なものもたりませんでした。今では、パナマとの国境近くのタラマンカ地方のいなかでも、サンホセでもEBAISにはほぼ同じ設備がととのっています。人員についても同様です。たとえば当時はタラマンカのへき地に医師をおくるためには、ヘリコプターを使わなくてはなりませんでした。もちろんお金がかかりました。でも医療システム全体からみればそれほど大きな支出ではなかったのです。

各地のコミュニティーとも話し合いをもたなくてはなりませんでした。たとえば、いくつか先住民領地がある、南部のブエノスアイレスにも行きました。都市部に住む非先住民のひとたちのためにはよく整備されたクリニックがありました。でも先住民たちが住んでいる農村部にはなにもないのです。それで、EBAISを設置する場所をきめるにあたって、すべての人びとが公平にアクセスできるように、それぞれのコミュニティーからの距離をはかったり、交通の便を調べたりする必要がありました。先住民、非先住民、両方のリーダーたちをいっしょに車に乗せて、あちこちを回りました。とくに、都市部に住む人びとは今までの特権をなくすことになるので説得しなくてはなりませんでした。

最終的に、この地域には三つか四つのEBAISをおくことになりましたが、ボルカ先住民領土においたのはいちばん最初のEBAISのひとつです。

もうひとつの重要な障害は当時のきびしい財政状況でした。そのため、政府内の経済や財政担当の閣僚たちからは、こんな時期に人を増やすなんて、と非難されました。彼らと、EBAISのための予算を交渉するのは大変でした。それでも最終的には、当初の800のEBAISの設置の目標はかないませんでしたが、政権がおわるまでに、600を達成できたのです。

国家的な政策

フィゲレスの次の政権にはまた野党がはいりました。社会保障公庫のなかには反対派がまだいて、EBAISを閉鎖しようという動きもありました。でも結局、大統領や保健大臣、社会保障公庫の新しい総裁などの支援があり、EBAIS をさらに増やすことになります。いまでは国中に1000以上あります。

その次の政権にはいってから、もともとのEBAIS についての考え方が少しうしなわれていきました。たとえば不必要に事務仕事をする人員をふやしたり、EBAISに薬局をつけくわえたり。

それでも公平性、アクセス、社会正義、そして治療と予防と保健教育のバランスの観点からみれば改革以前とはくらべものにならないぐらいよくなったと思います。何年か前のコスタリカの著名な人口学者の調査によると、コスタリカの乳児死亡率の顕著な減少はEBAISの活躍による部分がかなり大きいのです。現在のコロナ禍のなかでも、感染者の探知や治療に大きな貢献をしています。

これは多くのひとがかかわった、コスタリカの国家としての成果です。アリアス政権のもとでパイロット・プロジェクトがはじまりましたが、ふたつの野党政権のもとでも改革はすすめられました。改革計画の実施にむけて、世界銀行と米州開発銀行の融資がありました。この融資はカルデロン政権が交渉したのですが、世銀との協定は、フィゲレス政権のもとで調印されたのです。それでも偶然が寄与した部分もあります。たとえば、たまたまフィゲレスがパバスのプロジェクトを訪問してほれ込んでしまったこと。そして彼が大統領選に勝ったこと。そうでなければここまでこれなかったかもしれません。

首都サンホセ近郊のデサンパラードスのクリニック。フェルナンドの名前がついている。

将来への憂い

医療制度だけでなく、国全体が将来どうなるかとても心配です。社会保障公庫は無駄が多く、不効率で財政的に危機状態です。そのために、医療の質も低下しています。専門家に受診するのに一年以上待たされたりするのが普通になってしまいました。

そういう状況のなかにコロナ禍が到来したわけです。コロナのために、手術やほかの専門的な検査はすべて延期されてしまいました。知り合いの医師の話では、毎日のように手遅れのがん患者がおとずれるそうです。これは患者自身の問題だけでなく医療システム全体にとって大きなコストになります。

80年代にコスタリカは大変な経済危機に直面しました。そのとき大勢のこどもたちが学校を中退せざるを得なくなりました。彼らが今の貧困者の多くを占めています。今回のコロナ禍では医療の問題だけでなく、多くのひとたちが仕事を失い、社会的なサービスの予算もけずられています。ラテンアメリカのほかの国々とくらべれば、コスタリカは政治的な安定をたもってきました。でも、今は国民の国家に対する不信感が危機的なレベルに達しています。このような状況からの復興はとてもむずかしいと思います。

私は今は保健省が管轄している、食品などの検査や監視を担当する研究所で、タバコに関連した製品の監視を担当しています。もう政治的な役職につくつもりはありません。つぎの大統領選にむけて協力の依頼は受けましたが、断りました。

もうすぐ定年の予定です。以前は70歳を超えるまではたらきたいと思っていたのですが、最近は考え方が変わってきました。私は、ニカラグアとの国境に近いサンカルロス県の農家の生まれで、12人兄弟の末っ子です。私たち兄弟がはじめて大学まですすんだ世代なんです。15歳のころからはたらきはじめました。だから40年以上はたらいてきたことになります。そして、姉や兄や友人が最近病死したりやつれてきたりしているのを見て、いつ自分がこうなるかもしれない、と思いはじめました。私はぜいたくにはきょうみがありませんし、年金で十分暮らしていけます。妻ももうすぐ定年ですし、子どもたちももう大人になりました。

私は国立公園を歩いて、鳥の写真やビデオをとるのが趣味なんです。インスタグラムに投稿しています。もうそろそろ、まだ元気なうちに自分のすきなことに時間をつかったほうがいいと思うようになりました。でもなにか興味深いプロジェクトが出てきたらかかわってもいいですけどね。

(インタビュー2021年3月3日)

P.S. 私は、居住者ビザがおりるのにとても時間がかかったため、ごく最近社会保障公庫の医療保険に加入したので、まだコスタリカの保健医療制度をじかに経験していません。でもこの在留邦人の方が彼女自身と、お母様の経験について書いています、

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