テニスの大砲先生

コスタリカ、エスカスのテニスの先生、カニョン


「コスタリカは好きですし、コスタリカ人であることを誇りに思いますが、今のコスタリカは汚職と犯罪と麻薬がだめにしています。」

エスカスには、嬉しいことに市営のテニスコートがふたつ、うちから歩いて5分のところにあります。だれでも一時間3000コロン、日本円でたった500円払えば使えるのです。私は週に二回このコートでテニスレッスンを受けています。先生と一対一で1時間1万コロン、約1600円です。先生はまわりの人がみんなCañón、(カニョン=大砲と)と呼んでいる、一見ちょっといかつい、いがぐり頭のおじさんです。でも見かけとは対照的に、私がはじめてテニスを覚え始めて、まだみんな木製のラケットを使っていたころ全盛だった、クラシックで優雅なフォームでプレイします。レッスンをやっている間、コートのわきを通る人たちの多くが彼に手を振ったり「おう!」と呼び掛けたりして行きます。


どろんこの子ども時代

正式な名前はEdgar Eduardo Porras Porrales(エドガー・エドゥアルド・ポーラス・ポラレス)ですが、みんな私のことをカニョンと呼んでます。これはサッカーのおかげでついたあだ名です。22歳の時、サッカーの試合でフィールドのど真ん中からゴールを入れて、まるで大砲玉のようだったということでこういうあだ名がついたんです。今54歳です。

エスカスで生まれてずっとここで育ちました。市営テニスコートからほんの200メートルほど坂を上がったところが私の育った家です。今もその家には兄が住んでいて、私はその隣に住んでいるんです。私が子供のころはこの辺はまったく田舎でした。テニスコートのあるあたりは、ばら園があって、あとはコーヒー農園でした。バナナやびわや、いろいろな果物の木があって、友だちとよく人の畑に入り込んで木から果物をもいで食べたものです。それから近くの川や池に行ってよく水遊びをしました。今とちがって、水がきれいでしたよ。幸せな子供時代でした。母にはいつも泥だらけになって家に帰ってくるので怒られましたけど。「そんなどろんこのズボンあたしは洗ってやらないからね。あんたが自分で洗うのよ!」と言われて自分で洗ってました。

私は5人兄弟の4番目だったんですが、末っ子の弟は一歳半のとき病気で亡くなりました。姉は24歳の時に喘息で死んでしまいました。弟はバスで病院に連れていく途中で母の腕の中で亡くなったんです。当時は救急車もすぐには来てくれなかったんでね。母が女手ひとつで私たち兄弟を育てたんですが、私が13歳のときに亡くなりました。そのあとは自分で勝手に育ったようなものです。母は家政婦でした。家族は貧乏でしたけど食べるものに困ったことはありません。

学校は小学校6年生までしか行きませんでした。勉強ぎらいだったので中学校に進みたくなかったんです。母は無理に中学に行かせようとはしませんでしたが、「家でぐうたらしてるのは許さないからね」というので、7歳ごろから兄と一緒にリヤカーに果物を積んで売って歩きました。朝五時半にはじめて、午前中ずっと売り歩いて、12時から学校に行くんです。

テニスを始めたのは、先生だった叔父について、サンホセのテニスクラブに行ったのがきっかけでした。そのあとマヌエル・イダルゴという、当時エスカスでは名が知られていたテニス・コーチの家を訪ねて、ボールボーイに使ってくださいと頼んだんです。ビクトル・トーレスの甥です、と言ったらそれなら明日の朝いっしょにテニスクラブにおいで、と言ってくれました。セットごとの支払いで、ワンセット4コロンでした。これで当時はジュースが一本買えましたね。

コスタリカ、エスカスのスポーツ委員会の垂れ幕にも魔女のシルエット

市営コートにかかる、エスカス・スポーツ委員会の垂れ幕にも魔女のシルエット

まだ11歳で6年生だったころにボールボーイを始めました。コートを確保するために朝五時半ごろクラブに行ったものです。午前中仕事をして、午後から学校に行ってました。テニスは別にだれに教わったわけでもなくて、見よう見まねで覚えたんです。練習は、ラケットなんか持っていなかったので木の板を使って壁打ちをしていました。ボールがないときは松かさを使いましたね。

試合にも出るようになって、うまく行った時はベスト16まで行ったものです。一度だけペスト8に残りました。19歳まで試合に出てましたが、なまけものなのでそれ以上続けませんでした。その後10年以上道路工事や工場での仕事、それから建築現場で大工をやったりしました。でも31歳になってから、たまたま知り合いのテニスコーチに誘われて、アメリカ人のテニスコートつきの家でのトーナメントに参加したんです。それがきっかけでその家でしばらくコーチをすることになりました。そこからいろいろなところでテニス教室をやるようになったんです。


死ぬ時はいっぺんに

このごろは週に12回ぐらい一対一のテニス教室をやっています。大抵雨季よりも乾季の方が生徒が多いですね。社会保障公庫に加入していないので医療保険も社会保障もありません。でも体を動かす仕事をしているせいか幸い健康で病気もしたことはないんでとくに心配してません。借金もないですしね。老後に向けても何も準備してないです。まあ死ぬ時はいっぺんに逝きたいですね。

ハッピーですよ。健康で仕事が出来ることで十分です。今住んでいる家は自分の手で建てて、自分のものなんで借金はないですし。ひまなときは家がまだ完全に建て終わっていないので、大工仕事をしたり掃除や洗濯をしたりしています。ひとりもので子供はいないですが、となりに兄が住んでいます。それに生まれてから今までずっとこの町に住んでいるので友だちはたくさんいますしね。

コスタリカは好きですし、コスタリカ人であることを誇りに思いますが、今のコスタリカは汚職と犯罪と麻薬がだめにしています。せっかく美しい国なのに犯罪者を野放しにしていて、刑務所にいったんはいってもすぐ出てこられるんでね。昔の人たちが平和主義を唱えたのはいいことだと思いますが、今のリーダー達は当時とはちがいますね。以前は大統領でもひとりで道を歩いてましたけど今はそうじゃありません。

日本についてはとくに印象はありません。大津波のニュースを見たのは覚えています。きれいな山がありますよね。そうそう、フジ山です。パンダは日本でしたっけ。あ、中国ですか。日本の人たちへのメッセージですか?コスタリカに遊びに来てください。ストレスのない国だからリラックスできますよ。

(2018年10月19日)

テニスの大砲先生” への2件のフィードバック

    1. ありがとうございます。私も大阪選手の大フアンです。大砲先生の困るのは、特に何も教えてくれないことと、打ち合いをはじめると、夢中になって、勝とうとするので私の届かないところにばかり打って練習にならないことです(笑)。だから私にとってはテニスレッスンというよりは運動です。

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