
「 家族といっしょにすごすこと、二週間に一ぺん海に行くこと、このバルコニーに座ってお月さまをながめること。そういう時間をとても大切にしています。事務所で過ごす時間よりずっと大事です。」
キャロルは、私が国連にいたときに広報官を務めていたダニロの奥さんです。彼らが結婚したことは、私がコスタリカからバンコクに転任したあとに、フェイスブックで知りました。その後、いくつもダニロの、彼女に対する愛情にあふれた、しあわせいっぱいの投稿をみることになります。その多くはふたりでいっしょにサーフィンをしている写真です。ひとつ私の興味をそそったのは、彼がよく彼女のことをChina(チーナ、中国人)という愛称で呼ぶことでした(中南米ではアジア系のひとをよくチーナ、チーノと呼びます)。中国系のコスタリカ人の女性サーファーで、ダニロの心をこのようにすっかり奪ってしまったひとに会ってみたいなと思いました。
キャロルとダニロは、デサンパラードス(Desamparados, サンホセの南どなりの町)に、ダニロが数年前に建てた、簡素でまわりの自然に開け放した家に住んでいます。同じ敷地に彼の両親や兄弟の家があります。キャロルの話は、彼らの家の二階にあるバルコニーで、近くの山々をながめながら聞きました。
父への反抗、そしてアメリカへ
キャロル・フローレス・アラチャ(Karol Flores Aracha)といいます。40歳です。中国人の血は、父の父から受けついだものです。彼は中国からコスタリカの南のペレス・セレドン市に来て、そこで私のおばあさんに出会ったんです。でも父のことを認知しませんでした。それで祖母と父はふたりでサンホセに移っってきました。
2003年に祖父のほうが父と私たちに会おうとしたんですけど、父は彼のことを恨んでいて受け付けませんでした。だから祖父については何もしらなくて、中国のどこから来たかも知らないんですけど、ウォンという苗字で、写真家だったそうです。祖母とわかれたあとに、サンホセの西北にあるパルマ―レスに移って、そこで家族を持ったと聞いてます。パルマ―レス出身の友だちがある日、彼女の実家で昔の初聖体の記念写真を見つけて、その写真にウォンと書いてあったそうです。祖父が撮ったものなんでしょう。不思議なことに、私も写真が大好きで、できれば仕事をやめて写真に専念したいぐらいです。
父も母もとても貧しい家庭で育ちました。父はペンキ屋をやっているんですが、もう74歳なのでほどんど仕事はしていなくて、店は兄と弟がみています。母は主婦です。兄弟は五人います。私は二番目で、一卵性のふたごの、五分早く出てきたんで姉のほうになります(日本とは逆です)。私たち見かけはそっくりですけど性格は全然ちがうんですよ。
私はデサンパラードスで生まれそだちました。小さいころは近所の友だちと道路でなわとびや石けりやかくれんぼをして遊びました。家のうらのコーヒー農園にはいりこんで、コーヒー豆をつんで、おままごとをしたのも覚えています。とてもしあわせな子供時代でした。
19歳になって父にとても反抗的になりました。父が女遊びが好きで、それに母に暴力をふるっていて、ある日私の髪の毛をひっぱって、地面に倒そうとしたんです。それでとうとう抗議したら、父が「家のドアは空いてるぞ」というんで、出て行きました。そして警察に訴えたんです。本当にどうにかして欲しいと思ったわけではありません。でも、だれかが彼に対して「やめろ」と言えるんだ、ということを見せなくてはならなかったんです。母は暴力的な家庭にそだって、怖がって何も言わないので。兄や弟にも、暴力はまちがっているということを示すためにも、やらなくてはならなかったんです。
でも自分で私立大学の学費とアパートの家賃を払うのは大変でした。26歳のときにすべてから逃げたくて、オペア(ベビーシッター)としてアメリカに行ったんです。とくに父との問題から逃げたくて。一年間、雇い主の家族とニューヨークとシカゴで暮らしました。
ダニロとの出会い
今は友だちのつてで電気工学と建設関係の会社で事務仕事をしています。大学は卒業しませんでしたけど、専門学校で、経営学の学位をとりました。前のパートナーとの間に子供ができてからとったんです。男の子でクリスチャンといって、八歳です。私とダニロと、ダニロの前の奥さんとのあいだの13歳の息子といっしょに住んでいます。
私がいちばん幸福に思うのは、ダニロに出会ったことです。彼のようにいい人には今まで会ったことがありません。クリスチャンもダニロのことが大好きです。ダニロはクリスチャンのことを自分の子のように大事にしてくれるんで。ダニロの息子もダニロというんですけどとてもいい子で、クリスチャンと彼はとてもなかがいいんです。
ダニロと最初に出会ったのは16歳のときです。ふたりとも同じ学校に行っていて、彼はサッカーチームのコーチでした。当時はガールフレンドがたくさんいたみたい。私は貧血気味でとても引っ込みじあんで、休み時間にもあまり外に出ませんでした。彼が通っていくのをただ見ているだけでした。再会したのはフェイスブックを通じてです。ある日彼が息子を乗せてオートバイを走らせているのを見て、メッセージを送って、それから毎日話すようになってんです。
父とは今はとてもいい関係です。私が告発したおかげで彼の行動がすっかり変わったんです。しょっちゅう携帯でメッセージを送り合ってます。「パパ大好きよ。」「ぼくもだよ」っていうふうにね。私が仕事をしているあいだは、母が子供のことを見ていてくれます。クリスチャンの送りむかえで両親の家に行くと、父がいつも外で待っていてくれて、抱きしめてくれるんです。
キャロルの写真
海と写真と家族
海は安らぎとしあわせを与えてくれます。サーフィンはダニロが教えてくれました。すごくむずかしいですけど、私はサーフボードにすわって、水平線をながめたり、エイの群れが泳いでいくの見たりしているだけでもしあわせなんです。
写真が大好きで、ダニロといっしょに二冊本を作りました。電子ブックです。一冊は私の40歳誕生日を祝うために今までの人生から一番スキャンダラスな(笑)エピソードをまとめたもので、もう一冊は、海で起こったいろいろなストーリーを集めたものです。ダニロが写真を撮って、私が文章を書きました。そのひとつはフローラの話です。
私は泳ぐのが大好きで、以前いろんなひととグループを組んで、海での競泳に参加していたことがあるんです。そのグループのひとりがフローラという60代の女性で、すごく明るくて、おしゃべり好きで、みんなに好かれていました。ある日競泳のエベントで、私は自分のゴーグルと水泳帽がうまくあってなくて、もともと私はタイムが遅いのにもっとおくれるんじゃないかと心配しながら泳いでいたんです。そうしたらフローラが沖の方であおむけに浮いているのに出会いました。「どうしたの?」と聞いたら足がつったというんです。「でもこうやって魚が泳いでいるのを見ながら浮いてるだけでとても幸せだわ」って。結局私も彼女の足が治るまでいっしょにいて、ふたりで岸までもどったんです。
フローラは癌をわずらっていて、お医者様に、日に当たらないように泳ぐなと言われてたんです。でも彼女は全然無視していて、いつも水泳のグループに来ていました。一度「お医者さんに泳ぐなっていわれてるんでしょ?」って聞いたら、「あなた、私が医者の言うことなんて聞くと思ってるの?」というんです。「だって私は泳ぐのが好きなんだから。死ぬのはわかってるわ。でもだからって好きなことをやめたくないもの」って。フローラはその後亡くなりましたけど、彼女から、むずかしい状況のなかからも何かよいことを見出すことの大切さを学びました。
毎朝四時に起きて、クリスチャンを両親のところへ連れて行きます。そのあと朝の六時半から夕方まで一日中冷房で冷えすぎたオフィスビルのなかで、太陽を見ずに仕事をするんです。息子によい教育を与えるためにはお金がいるので仕方ありません。でも家に帰って、夫と息子たちといっしょに過ごせることで報われてます。
家族といっしょにすごすこと、二週間に一ぺん海に行くこと、このバルコニーに座ってお月さまをながめること。そういう時間をとても大切にしています。事務所で過ごす時間よりずっと大事です。
コスタリカの光と陰
コスタリカの民主主義をとてもありがたく思っています。これをいちばん目の当たりにしたのは前回の大統領選挙です。人権をまもってくれるひとでなくては、と思って、アルバラード大統領に投票しました。嬉しかったのは、もう何年も投票したことのなかった母が彼に投票しに行ってくれたことです。父もそうです。
でもコスタリカには人種差別や偏見がまだあります。コスタリカ人の悪いところは、自分たちはほかの中米の国の人より優れていると思い込んでいるところです。たとえばニカラグア人の移民に対しての差別はとても悲しいことです。私の会社にはニカラグア人の同僚がたくさんいて、みんなとてもいい人たちなので。
日本は大国で、とてもテクノロジーが進んでいて、日本人はすごく頭がいいという印象があります。大津波のニュースをみて、とても心が痛んだのを覚えています。私は悲しいニュースをみるのが耐えられなくて、すぐ泣いてしまうんです。
日本からコスタリカに来たいひとにはよいところも、みにくいところも話してあげます。町を歩くときは持ち物に気を付けて、高級なものは身に着けないように。犯罪が多いですから。海と火山を見に行くのがいちばんいいですよ。
(インタビュー2019年2月8日)