作家クインス・ダンカンと「ちび」のフィゲレス

「エストラーダからサンホセに来たときは大きなカルチャー・ショックでした。いなかから都市に来たというだけでなく、[ミスター・ダンカンの息子]から、ただの「くろんぼ」になってしまったんです。 」

(前回からの続き)

「チビ」の演説

祖父との関係は、愛情深いものでした。しょっちゅうキスしたり抱きしめたりするというのではありませんでしたが、彼は優しい、朗らかな人でした。でも祖父は革の鞭を持っていて、悪いことをしたときはそれで打たれました。ただ彼は、その前に、私をすわらせて、なぜぶつのかをきちんと説明するんです。「お前はこういう悪いことをした。だからそれを二度としないようにぶつんだ」という風にね。

私が14歳のとき、何か悪いことをして、いつものように説明を受けました。それで私が、「もうわかった。わかっているから二度としない。だからぶつ必要はないじゃないか。」と言ったんです。すると祖父が、「ほう、これはお前が大人になったっていうことだな」といって、鞭をその場ですてたんです。それ以来、一度もぶたれたことはありませんでした。その代わり、もう大人になったからということで、庭の掃除やら、料理やら、いろんな用事を言いつけられて、こんなことなら黙ってるんだったと思いましたよ(笑)。

1948年、私が八つだったとき、内戦に勝利して間もなく、ホセ・フィゲレス (1948–1949、1953–1958、1970–1974 コスタリカ大統領、そして建国の始祖のひとり)がリモンに来ました。そして、アフロ系の人びとに対して、英語で演説をしたんです。これは私たちにとっては大変なできごとでした。それまで大統領がアフロ系の人びとに話をすることさえなかったんですから。そのうえ英語でしゃべるということは、我々に特別な敬意を表したことになります。

彼は私たちにこう言いました。リモンに独自の教育システムまで築くほどだから、あなたたちは教育に非常に熱心であることがわかる。その反面、いずれジャマイカに帰るといっているようだ。でもそんなことは不可能だ。あなたたちの大半はコスタリカで生まれている。年配の人たちだって、ジャマイカにもどったところで、知っているひとはほとんどいなくなっているだろう。だれもあなた方のことを覚えてもいないはずだ。私は法律を改正して、あなたたちみんながコスタリカ市民になれるようにするから、ジャマイカのことはもうあきらめなさい。それからリモン県に、中高等学校制度をつくるつもりだ。でもリモンだけに個別の英語の教育制度をつくる予算はない。だからみんなスペイン語を学んでもらわなくてはならない。

おじいさんは演説が終わると、私に、「チビの言っていることをよく聞け」と言いました(笑)。フィゲレスは背が低くて、小柄だったのでね。そして、次の日からスペイン語の学校に通うことになってんです。

祖父の死

祖父は彼が75歳、私が15歳のときに、サンホセの病院で亡くなりました。

彼が入院している間、私はエストラ-ダに残っていたんですが、もう危篤らしいということで母に呼ばれて、サンホセまでお別れに行きました。病室にはいって、いつもしていたように「Jim Pa(JimはJamesの愛称、Paはパパの省略)」と呼んで、「ぼくです、クインスです」と言ったら、「Hola, hola(オラ、オラ)」と言うんです。母は、私に、もうおじいさんは意識が混乱していて、会っても私だとわからないだろう、と言っていたのでうれしかったですね。

当時のリモンのアフロの人たちの間ではスペイン系の白人やメスティソ(白人と先住民の混血)の人たちのことを、スペイン語のEspañaをもじって「パニャ」と言ってました。おじいさんはパニャのことばを見下していて、一生のうちに、「こんにちは」のholaと、「さよなら」の代わりにbueno(ブエノ、よい、了解、という意味)だけ覚えたんです。

祖父はしばらくひとりでしゃべっていて、私が「じゃあ、もうそろそろ帰ります」と言ったら、「Bueno, bueno」と応えて、それが最後の会話でした。私のことをわかってくれたのがうれしくて、大声でさけびながら、病院中を走りまわりましたよ。

エストラ-ダにもどってから、ある朝早く、知らない男が馬に乗ってあらわれて、「クインス、あんたのおじいさんから、自分はもう逝ってしまったという伝言を頼まれた。よい人間になって、お母さんのめんどうをよく見るように、と言ってた。」というんです。そしてその午後の汽車で、祖父が亡くなったという電報が届きました。だれも電話など持っていなかった時代に、いったいどうやってその人は祖父から伝言を受けたんでしょう。その後そのひとは、近くにあるマティーナという町の住人で、祖父と同じ大工の組合の会員だということがわかりました。彼らのあいだには、何か無線式の連絡方法があったんでしょうね(笑)。

世界的な黒人市民権運動のリーダー、マーカス・ガーベイが設立した、United Negro Improvement Association (UNIA)の本部だった、リモン市のLiberty Hall。2016年に火事で焼けてしまったが、募金を募って建て直す予定。Waupimnon写真

人種差別に直面

祖父が亡くなって、サンホセに住んでいた母の家にうつりました。サンホセでは、建具屋で見習いをしながら夜間学校に通い始めました。

エストラーダからサンホセに来たときは大きなカルチャー・ショックでした。いなかから都市に来たというだけでなく、[ミスター・ダンカンの息子]から、ただの「くろんぼ」になってしまったんです。サンホセに来て、パニャの文化に慣れなくてはならなかったわけですね。

あの頃は道を歩いていると、平気でひとがお互いをつねり合って、「幸運を私に」と言ったものです。昔からの迷信で、黒人をみたら、近くにいる人をつねると縁起がいいと信じられてたんですよ。

ひとつパニャの習慣でショックだったのは、ひとの肉体的な特徴について平気でしゃべることです。たとえば太ったひとには「親愛なるでぶちゃん」といったり(笑)。英語文化では考えられないことです。いち時、足の悪い同僚と仕事をしたことがあったんですが、もうひとりの同僚の女性が彼に「ねえ、びっこくーん!」と呼びかけたことがあって、私はたまげてしまったんですが、びっこの本人は平気でしたね。

建具屋の持ち主のケサダ一家の場合は、同じ家族のなかでも私に対する態度がそれぞれちがっていました。主人のフアンはかなり差別的でしたけれども、奥さんのアウローラさんは、毎朝私を近くのお菓子屋にお菓子を買いに出して、帰ってくると必ずいっしょにコーヒーをのませてくれたんです。長男はとても丁寧に接してくれて、色々教えてくれました。娘たちのあいだでも、長女は差別的で、妹のほうは私のことをとても好いてくれていました。おかげで、一概にパニャの人たちはみんながみんな人種差別主義者ではないことが理解できたんです。

私の妻はアフロ系ではありません。白人なのかメスティソなのか話し合ったことはいち度もありません。でもラテンアメリカの人口の大部分はメスティソです。白人だと言いたがる人は多いですけどね。私たちにとってはどうでもいいことです。二度目の結婚ですが、大学の同級生でした。彼女の父は、リモン県のサッカーチームのメンバーだったこともあって、アフロ系の人たちにとても親しみを持っていたんです。でも、いざ娘が私と結婚するとなったら、その親しみはいっぺんに吹っ飛んでしまいましたよ。彼が亡くなる直前にようやく和解しました。

私は作家であると同時に、コスタリカ国内でも、国際的にも人種差別の撤廃運動に参加してきました。いちばん印象に残っている経験のひとつは、世界教会協議会の人種差別委員会の一員としてオーストラリアを訪れたときのことです。ひと月近く先住民の人たちと過ごして、お別れをする直前でした。先住民のひとりが、人種差別委員会の一行がオーストラリアに着いたときのテレビニュースを、大勢で見たときの話をしました。私がスーツにネクタイ姿だったので、「こいつはイギリス人と同じで、役立たずにちがいない」とみんな思ったというんです。そのあとで、彼らのリーダーが粗末なくさりに動物の足がぶらさがったペンダントを私の首にかけて、「あなたは我々の仲間だ」と言ってくれたんです。感激して涙がでてしまいましたよ。今度オーストラリアについての小説を書こうと思っています。

コスタリカのアフロ系市民の人権運動の大きな功績として憲法の改正があります。第一条が、「コスタリカは、民主的で、自由な、かつ独立した、多民族、多文化共和国である」という風に改正されました。「多民族、多文化」ということばが加えられたんです。これは、1949年にこの憲法が発布されて以来もっとも重要な改革です。もともと1998年に当時、女性議員だったジョイス・ソーヤーズ(Joyce Sawyers)が提案したんですが、2015年までそのままになっていて、ようやく全員一致で採択されました。

それでもコスタリカはプーラ・ビーダ

私はコスタリカのあり方についてはとても批判的です。たとえば、人種差別はいまだに残っています。昔と比べると、イデオロギー的な人種差別はもうほとんどなくなっていると思いますが、無意識な偏見というのはまだまだ続いています。たとえば、最近コスタリカ大学が行った調査で、コールセンターが人を新しく雇うときに、概して色の白い人、金髪の人、見かけがヨーロッパ人的な人を優先していることがわかったんです。電話で話すだけで、姿は見えないのに、です。

その反面、この国のよいところが損なわれることを心配しています。とくに、他者に対する連帯感、国家と国民全員がお互いに対して責任をもたなければならないという信念です。これはほとんどコスタリカ人の遺伝子の一部になっています。それから階層制度を受け入れない平等意識、そして平和主義。近年、こういった価値観を失ったとはいいませんが、だんだん個人主義的な社会になってきている気がします。

私はあちこち旅行しているわりにはアジアに行ったことがなくて、日本についてもあまり知識はありません。でも一番関心するのはあのような、資本主義と工業化の進んだ大国を築きながら、日本文化の本質を失っていない、ということです。

コスタリカについて批判的ではありますけど、私はこの国が大好きです。他の国に住むことなど考えられません。ここにいると安らぎを感じるんです。この国の価値観、風景、人びと、習慣が自分にぴったりなんです。たとえばアメリカに行くといつも攻撃されないようにまわりを警戒してしまいます。でもコスタリカにいると安心できるんです。以前、二か月ほどオーストラリアとジンバブエに出張したことがあるんですが、戻ってきたときは嬉しくて、地面に接吻したかったほどです。「プーラ・ビーダ*」というのは本当なんですよ。

(インタビュー2019年、1月14日)

*スペイン語でプーラは純粋、ピュアという意味で、ビーダは生活、人生または生命をさしている。しいて定義すれば「命そのもの」。コスタリカではあいさつ代わりによく用いられる。【最高!」または「オーケー」といった意味でも使える万能表現。

作家クインス・ダンカンと「ちび」のフィゲレス” への2件のフィードバック

  1. 一気に飲み込まれるようにして、読み終えました。みんなユニークな個人史があるんですね。昔ホンジュラスにいた頃、中年の夫人同士で「ゴルダ」と呼び合っていたのを思い出しました。日本だったら喧嘩になりますね。

    1. 毎回読んでいただいてありがとうございます。そう、ゴルダってよくつかうんですよね。太ってなくても!エクアドルにいたころユニセフ事務所の同僚が私にも他の女性たちにもかなり見境なくゴルダといってましたけど、彼女にとっては親しみをあらわす表現なんですよね。

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