レスビアン活動家、エマ

「 いまのコスタリカは転換期にあると思います。平和主義と福祉国家の恩恵を受けて育って、その大事さを理解している世代から、新しい世代への交代の時期です。」

コスタリカは、中南米のほかの国々、また開発途上国全般とくらべても、平和で、民主的で、社会福祉や経済発展も進んでいます。でも日本と同じようにその発展から取り残された人びと、差別されている人びとがいます。たとえば先住民、アフリカ系のひとたち、女性、そして同性愛者。私がコスタリカの国連事務所にいたころの協力事業は、そういう人びとの権利を守り、推進することに焦点をあてていました。こういった活動の中で、フェミニスト, かつレスビアンの人権擁護の運動家のエマにであったのです。

実験して自分がレスビアンだと確認

エマ・チャコンといいます。49歳です。サンホセの中心にある、カルデロン・グアルディア病院で生まれて、その近所で育ちました。父と母両方の祖父母が共産党員でした。1948年にフィゲレス派が内戦に勝ったあと、祖父が二人とも刑務所にいれられてしまったんです。とくに父方のおじいさんはリーダー格のひとでした。彼は靴屋で、共産党のなかでは、靴屋さんたちというのは、当時は大きな勢力だったんです。

父と母は共産党の青年団の会合で出会ったんですよ。母は看護婦で、父は電気技師でした。でも父の本当の天職は共産党員としての政治活動で、彼は党の創立者のマヌエル・モーラの秘書も務めたんです。両親は私がまだ子供のころ離婚しました。

兄弟は兄がひとりと弟がひとりいます。兄はゲイで、パートナーといっしょにスペインに住んでいて、弟は女性と結婚して子供がいます。自分がレスビアンだと気づいたのはまだ五歳のときに、大好きな女の子のお友だちと結婚式をあげた夢をみたときです。彼女はウェディングドレスを着ていて、私はモーニングコートでした。小さいながらに、これはだれにも話せないことだとわかりました。

思春期にはいってからはボーイフレンドがいたこともあるんですけど、真剣にはなれませんでした。それにセックスの話になると、いつも逃げていました。親友だった女の子を好きになったときに精神科医に相談したら、思春期に同性に憧れるのはよくあることで、そのうち治るといわれたんです。それでも徐々に自分はやっぱりちがうんだ、ということに気づき始めました。

それで異性愛者か同性愛者かどっちだかはっきりさせなくちゃ、と思って実験することにしたんです。まず女の子の友だちとキスをしてみて、どういう気持ちになるか試してみました。三か月間続けてみて、私はよかったんですけど、彼女の方が、自分はやっぱりそうじゃない、といいだして。それで今度は男の子とキスをしてみたら気持ち悪くて死ぬかと思いました!

共産党員からレスビアン活動家へ

子供のころから共産党の少年団に参加していました。13歳のとき、党の青年団の集まりに参加して、メーンテーブルが男ばかりだったので「どうして女の人がいないんですか?」と聞いたんです。共産党は社会正義と平等のために戦っているはずなのに。そうしたら彼女たちはコーヒーを作ってるからだって。納得がいかなくて、それはおかしいと言い張ったら、ようやく二人だけ女性をつれてきて座らせました。90年代のはじめに、Las Entendidas(ラス・エンテンディーダス=わかっている女たち)というレスビアンの組織に出会って、そちらの道を選びました。共産党のなかでは、レスビアンであることをおおやけにすることは、受け入れてもらえない、とわかっていたからです。

80年代の、中央アメリカ全体の平和運動にインスピレーションを受けました。活動家としての私は、あの大きな市民運動から生まれたんです。

母に自分がレスビアンであることを話したのは、サンホセの外でレスビアン運動の会議に参加して、家に帰ってきたときでした。私が留守のあいだに、極右の組織のだれかが母に電話して、私がその会議にでていることを教えたんです。母はとても感情的になっていて、「本当のことを言って!」と、食い掛ってきました。そして、しきりに自分を責めていました。自分が外で仕事をしていたためにしつけが行き届かなかったからだわ、などと言って。

2015年、ダイバーシティを支持するデモにて

家に帰ってからの最初の一週間はけんかばかりしていました。とうとう私が彼女に、「こんな状況ではお母さんといっしょに住めないから出ていく」といったんです。そうしたら少し落ち着いたようでした。そのあと私が病気になってしまったんです。最終的にはA型肝炎だとわかったんですけど、なかなか診断がつかなくて、一時は白血病だと言われたりして。それで母が私を本当に失ってしまうかもしれないと気づいたのか、態度が変わりました。今でもいっしょに住んでいます。

父は思春期の少年がそのまま大きくなったようなひとです。私のセクシュアリティについてはあまり関心がなかったみたい。彼はむしろ私の活動家としての仕事を誇りに思っているようです。

わたしの家族は変わってるんです。保守的な人たちもいて、みんながみんな同性愛を受け入れているわけではないんですけど、兄のことも、私のことも、私たちのパートナーのことも包み込んでくれます。私は七年間いっしょだったパートナーがいたんですけど、家族のだれかが食事に呼んでくれる時は彼女もいっしょに行くのが当たり前でした。兄のパートナーは、おじさん達のひとりだと思われています。

同性結婚合法化が最大の課題

今まで、財務省、大統領府、オンブズマン事務所などでジェンダーに関連した仕事をして来て、今は労働省のジェンダー課で働いています。政府の省庁のなかでは、最初にジェンダー担当の部署を設けたところです。そこで、女性に対する暴力廃止のための国家計画や、平等とジェンダーの公平のための計画に取り組んでいます。

今、LGBTの人たちにとっての最大の課題のひとつは同性結婚が法的に認められることです。2018年の8月8日に、最高裁判所が18か月以内に同性間の結婚が合法化されれよう、議会が措置をとるべし、という判決をくだしました。はっきりした決断をするのをためらったので、こういう判決になったんです。こうなったら、期限がきれるまで、これを妨害するような動きがないように見張って、政治的な圧力を保たなくてはなりません。私たちの運動の目標は人びとの意識をかえること、それによって、お互いのちがいを尊重しあい、多様性を認めるようにうながすことです。

でも自分自身の生活に関しては、だいたい満足しています。自分の歩むべき道をみつけることができましたし、家族との生活にも幸せを感じます。それに最近新しいひとと交際を始めたんです。


「ただ、ときどきどうしても怒りを感じてしまいます。LGBTの人たちは、ほかのみんなと同じ人間なのに、どうして憎まれなくてはならないんでしょう?どうしていまだにゲイやレスビアンの子どもたちが家を追われなくてはならないんでしょう?みんな同等に人権をもっているのに。」

いまのコスタリカは転換期にあると思います。平和主義と福祉国家の恩恵を受けて育って、その大事さを理解している世代から、新しい世代への交代の時期です。新しい世代は、テクノロジーにばかり気を取られていて、人と人との間の連帯の重要さがわかっていないんです。そのうえ、組織犯罪が広がって治安が悪くなっていますし、だんだん国家自体が解体されていってます。電気通信事業を民営化しようとする動きがありますけど教育制度はこれからどうなるんでしょう?保健医療は?よい方向に行けばいいんですけど、ヨーロッパやブラジルの傾向をみていると心配です。

日本のひとたちの印象ですか?あまりにもまじめすぎて、厳格すぎて、少しリラックスした方がいいと思います。もっと人生を楽しむべきです。リラックスしたからといって、無責任になるわけではないんですから。急がずに、少しスピードを落とすといいですよ。

インタビュー2019年12月4日

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