コスタリカ、過去と現在

愛すべき、凛とした、ほどほどの国

私のコスタリカ人の友人のなかに、この国の企画大臣と教育大臣をつとめた、経済学者のレオナルド・ガルニエ―ルがいます。彼は2005年に、「コスタリカ、もうちょっとで成功するところの後進国」(Costa Rica, un país subdesarrollado casi exitoso) という本を書きました。この本は、1948年に内戦に勝利したホセ・フィゲレスの指導のもとに、「第二の共和国」が設立されてから現在までのコスタリカの発展の過程について語っています。

中心となるテーマは、70年代までこの国がたどってきた、社会民主主義の道を歩みつづけるか、またはネオリベラリズムの道に方向転換するかの選択をめぐった葛藤です。その経緯を分析するにあたって、レオナルドはよく、「ア・メディアス」(a medias)ということばを使っています。「中途半端に」という意味です。コスタリカは、社会民主主義の道を途中までしかたどっていないと同時に、ネオリベラリズムへの変更もはんぱにしか実現していない、いうのが彼の見解です。

コスタリカの、このよくもわるくも中途半端なあり方というのは、ひとつにはこの国の人とびとの慎重で思慮深く、やさしい国民性が生んだものと言えます。また、ラテンアメリカでは例外的な、ながい民主主義の歴史のたまものでもあります。

コスタリカ社会は、概して極端なこと、過激なことをきらいます。ドラマチックなことばや行動を好むラテンアメリカ地域にあって、めずらしい特性です。レオナルドから聞いた冗談でこんなものがあります。ほかの国では、革命戦士が「祖国か死を!(自由な祖国を得られなければ死を選ぶという意味)」とさけんで戦いにいどむ。だけどコスタリカのスローガンは「祖国かひっかき傷を!」なんだ、というのです。

こういう姿勢は、むしろ中途半端というより、「ほどほどの精神」とでもいったほうがあっているかもしれません。

2018年の大統領選挙も、過激な選択をさけた例にはいります。それまで比較的無名だった、極右で原理主義的クリスチャンの牧師が思いがけない人気をえました。一回目の投票ではいちばん多く票をとり、大統領になる可能性大とみられていました。でも最終的には、第二ラウンドで、中道左派のカルロス・アルバラードが60パーセント以上の票をとり、圧勝したのです。アルバラード氏は、それほど熱狂的な支持をあつめていなかったので、このような大勝利は予想外でした。でもこの結果は今、世界中に押しよせている超保守的ポピュリズムの波を、コスタリカ国民がしっかりと押しかえしたことをあらわしているともいえます。

この例をみると、この国は慎重であると同時に、伊藤千尋さんの本の、「凛とした小国」という表現が似合っていることがわかります。

コスタリカの、この凛とした姿勢と中途半端さが入り交ざった特性は、これから紹介するいろいろな分野にもみられます。


平和主義

コスタリカは、ほかの中南米諸国と同じように、先住民文化の発展、スペインによる植民地化、独立、国家の近代化と民主化、といった過程を通って今日にいたりました。でももう少し掘りさげると、この国独特の特質が見えてきます。

たとえば、スペイン人到来から今日までの道をコスタリカは、ほとんど戦争をすることなく、平和にたどってきました。これは、90年代まで武力闘争の絶えなかったラテンアメリカのなかでは、めずらしい例です。紛争は多々ありました。でもそれらをほとんどの場合、交渉により平和的に解決してきたのです。そして、1949年には、上記のホセ・フィゲレスの指導のもとに軍隊の廃止という画期的な措置をとります。

その後コスタリカは、外交のうえでも平和構築を推進してきました。1980年代には、ニカラグアなど近隣国の内戦の終結に大きな貢献をし、当時のコスタリカ大統領オスカル・アリアスはノーベル平和賞を受賞します。国連の場では、武器貿易条約(2013)や、核兵器廃止条約(2017)の採択などに向けてコスタリカはリーダーシップを発揮しました。

1948年12月1日、コスタリカ、サンホセのベージャビスタ兵舎にて、ホセ・フィゲレスが軍隊の廃止を宣言。その際、シンボリックなジェスチャーとして、兵舎の壁を一部ハンマーで壊した。
1948年12月1日、サンホセのベージャビスタ兵舎にて、ホセ・フィゲレスが軍隊の廃止を宣言。その際、象徴的なジェスチャーとして、兵舎の壁を一部ハンマーで壊した。この兵舎はその後、国立博物館になる。(国立公文書館写真)



民主主義と福祉国家

多くの中南米諸国が、比較的最近まで軍事政権下にあったのとくらべて、コスタリカは1948年以来、民主主義をたもち、人権の擁護に力をいれてきました。政治活動への市民参加も活発です。イギリスのエコノミスト誌付属の研究所、Economist Intelligence Unit が毎年発表する民主主義指数の2018年ランキング(p.36参照)では、コスタリカは20位にはいります。「完全な民主主義」と評価される、数少ない発展途上国のひとつです。ちなみに日本は22位で、「欠陥のある民主主義」のカテゴリーにはいっています。

国民の教育や福祉にも、早くから取り組んできました。1869年に発布された憲法が、小学校教育は義務であり、政府予算からまかなわれるべしとし、1920年代には人口の大半が読み書きができるようになります。1940年代の前半には、社会保障公庫が創設され、保健医療と社会保障の完全普及への道がひらかれます。1970年代には、コスタリカの乳児死亡率はほかの中南米諸国をはるかに下回り、先進国に近い数値に達していました。

Monumento a los Presentes (今ここにいる人びとへの記念碑), 中央銀行の前にある、コスタリカの農民たちを描いた,フェルナンド・カルボの彫刻。
Monumento a los Presentes (今ここにいる人びとへの記念碑), 中央銀行の前にある、コスタリカの農民たちを描いた,フェルナンド・カルボの彫刻。
Carlos Adampol Galindo写真)


「イグワリティコス」

コスタリカは最近までは、ほかの中南米諸国のようなひどい貧富の差を免れてきました。この国の人々が、自分たちの独自性をさす言葉のひとつに igualiticos(イグワリティコス)という表現があります。平等を意味する「イグワル」とコスタリカ人をさす慣用語の「ティコ」を合わせたものです。

世界でいちばん不平等な地域であるラテンアメリカのなかで、コスタリカが比較的公平な社会を築きあげられた理由として、植民地時代、他のスペイン領より貧しかった、ということがあります。天然資源は乏しく、耕地も限られていました。また、大がかりな強制労働を使って、大農園をまかなうための先住民人口にもめぐまれませんでした。スペイン人との戦いと、彼らが持ち込んだ疫病のために、先住民たちは絶滅寸前まで追い込まれたのです。そのため、スペイン人たちは自分たちが自ら働いて、小中規模の農業にたずさわらざるを得なかったわけです。

「イグワリティコ」の思想は、この国の歴史的人物にも象徴されます。コスタリカの国際空港の名前の主、フアン・サンタマリアです。1850年代に、アメリカ人傭兵、ウィリアム・ウォーカーが、中央アメリカ諸国の征服をこころみたときのことです。コスタリカのフアン・ラファエル・モーラ大統領ひきいる中央アメリカ連合軍が、ニカラグア南部のリーバスの決戦でこれを阻止します。この戦いで、ウォーカーの部隊が基地としていた宿に決死で火をつけ、敵の砲火にたおれたのが、フアン・サンタマリアでした。

彼はこの功績のおかげで、コスタリカの国民的英雄となります。それだけならば別にめずらしくないことですが、フアン・サンタマリアは、司令官でも将校でもなく、ただの鼓笛兵だったのです。それに、彼はアラフエラの貧しい女中に生まれた私生児でした。ちぢれっけだったため、友だちから「ウニ」と呼ばれていたらしいことから、先住民と黒人の血がはいっていたのではないかとも思われています。ラテンアメリカは人種差別がいまだにはびこり、階級意識もつよい地域です。フアン・サンタマリアのような人物が国民的ヒーローになるというのは、「みんな平等」という考え方が早くから育ったコスタリカならではの現象ではないでしょうか。

コスタリカ、アラフエラ市にあるフアン・サンタマリアの像。この国の平等意識の象徴。
アラフエラ市にあるフアン・サンタマリアの像(Eric Chavarría写真)


不平等、治安の悪化、汚職

ただ、この国の例外的な平等意識や、教育、福祉面での業績は、1980年代にはいって、徐々にむしばまれることになります。その理由のひとつとして、70年代後半にはいると、国民の福祉や産業化に向けての公共投資に経済成長が追いついていかなかったということがあります。そのために多大の対外債務がたまり、石油ショックも加わって、大きな経済危機に陥りました。これと並行して、コスタリカにもラテンアメリカや他の地域の国々と同じように、政府機関の縮小や民営化の拡大をとなえるネオリベラリズムの波が押しよせていました。

これらの傾向は、失業率やインフレ、そして貧困率の劇的な上昇を招きます。それでも、コスタリカは保健、教育、年金制度などの社会政策の民営化を避け、最貧層の人びとへの支援に力をいれました。 そして、80年代なかばには経済危機から復興しはじめます。 でもこの時期に起こった、いろいろな面での逆転は、長く尾を引くことになります。

コスタリカは産業の多様化と貿易の自由化にも着手しました。その結果、比較的高度な経済成長を達成し、民間企業や、熟練労働者たちの所得は向上します。でも経済危機の影響で、中学校以上の教育を受けることができなかった人びとはとりのこされてしまいました。そして、ここ数十年間のあいだに、不平等がどんどん悪化することになります。

2016年の世界銀行の報告書(p.84, Figure 4.8)によると、コスタリカは、ジニ係数で計算した所得格差の一番大きい10ヶ国のうちに入ります。そのうえ、ブラジルやコロンビアなど、ラテンアメリカのほかの国々がこの問題を多少改善することに成功しているなか、コスタリカの場合は逆に悪化する傾向です。

貧困率も、ほかのもっと貧しい発展途上国とくらべると低いものの、ここ20年間、20パーセント以下になかなか下げることができないでいます。最近は失業率も上昇しています。

また、とても安全な国だったのが、近年は治安が以前より悪くなってしまいました。国際的な麻薬密輸などの組織犯罪が影響しているとはいえ、不平等と貧困の問題も寄与しているはずです。

長年のあいだ、大きな財政赤字を引きずってきているため、こういった緊急な問題に対処するための予算もままならない状況です。最近、大がかりな反対デモやストライキに直面しながらも、ようやく税制改革法案が議会を通りました。でもこの改革だけでは、ほんの少ししか赤字は埋まりませんし、所得の格差の是正もたいして進みません。財政面でも、社会福祉政策の面でも、さらなる改革が必要です。

コスタリカは、ラテンアメリカ諸国のなかでは比較的クリーンなイメージをたもってきました。しかし、2000年代に入って、三人もの元大統領に収賄罪の疑いがかかり、二人が有罪判決を受けるなどの事件があいつぎます。現在のカルロス・アルバラード大統領の前の、ソリス政権のもとでは、セメント輸入の自由化をめぐって大きな収賄疑惑がおこりました。大統領府や、今まで疑いの余地なし、とみられていた最高裁判所までが巻き込まれ、裁判官がひとり解任されました。

こういった傾向は、コスタリカの人々に、自国の政府や公共機関、ひいては民主主義自体に大きな不信感を抱かせるようになります。これはもちろんコスタリカにかぎったことでなく、日本もふくめて、世界中で起こっている現象です。とはいっても、この国はラテンアメリカのなかでは民主主義の先駆国であることを考えると、残念なことです。


環境保護

でも、このようなむずかしい問題に直面しながらも、コスタリカの人びとは、この国がどういう目標をどのようにして目指すべきか、絶えず活発な議論を繰り返し、歩むべき道を模索しています。また、いろいろな分野で先駆的な試みを進めています。

たとえば森林再生です。1960年代から70年代にかけての農業や牧畜の拡大により、コスタリカの森林面積は、80年代後半には、国土の五分の一にまで減ってしまいました。しかし、90年代に入ってから、政府、民間企業、そして市民団体が協調して森林再生に取り組みます。その一環として、環境サービスへの支払いというイノベーションを実施しました。ガソリンに税金をかけ、その税収を使って森林保護や再生活動に対して報酬を与えるのです。

こういった努力により、2000年代にはいるころには、森林面積が二倍以上に増えました。そして、今でもこの取り組みは続けられています。政権が変わると、政策もがらっと変わってしまうのがありきたりなラテンアメリカにあって、このような画期的なこころみを三十年近く続けてきたこと自体、貴重な業績といえるでしょう。

また、コスタリカは、2019年一月に、経済を2050年までに完全に「非炭素化」する計画を発表しました。世界全体からみれば、コスタリカが排出する炭素の量は微々たるものですが、この計画をたてたこと自体がほかの国々にとってインスピレーションになれば嬉しいことです。

コスタリカ、エスカスの森。この国は三十年間に森林面積を二倍にふやしている。
エスカスの森


ハッピーな国

もうひとつ世界の注目をあつめている、コスタリカの特徴として、この国の人びとが「ハッピー」である、ということがあります。コスタリカは、世界各国の「幸福度」ランキングが発表されるたびに、上の方にはいるのです。このランキングは、いろいろな国の専門家が集まって、各国の人びとに、自分の生活の幸福度を訊ねる世論調査にもとづいて作ります。

2019年の「世界幸福度調査」のランキング(p.24, Figure 2.7 参照) では、コスタリカは12位で、2018年からワンランク上がっています。発展途上国のなかで、20位以内にはいっているのは、コスタリカだけです。反面、日本は、2018年のランキングは54位、2019年は58位と、四ランク落ちています。

2018年のレポート(ランキングは p.20, Figure 2.2 参照)は、コスタリカだけでなく、ラテンアメリカの国々が、概して国民総所得のレベルに比べてハピネス度が高いことを指摘しています。そして、いちばんの理由として、幸福の「社会的基盤」をあげています。ラテンアメリカの社会は、家族や友人のあいだの暖かさや、お互いに助け合う人間関係が豊かだということです。たしかに、コスタリカのひとびととつきあって、家族や友だち、そして生活を楽しむことを大切にする社会だということがわかります。

2018年世界ハピネスレポートから「世界幸福度地図」。コスタリカのランキングは13位。
世界ハピネスレポート2018。色が濃いほどハッピー。コスタリカは7.07。

コスタリカの人たちがしょっちゅう使う言葉のなかに、「Pura vida」(プーラ・ビーダ)という表現があります。スペイン語でプーラは純粋、ピュアという意味で、ビーダは生活、人生または生命をさしています。しいて定義すれば「命そのもの」と言った感じになるでしょうか。この国ではあいさつ代わりによく用いられます。それに、「最高!」という意味にもなりますし、「オーケー」といった意味でも使える万能表現で、まさにコスタリカ人の国民性をあらわしている言葉です。


移民の国

コスタリカの現在の先住民の人口は、ほぼ10万人で、総人口の2.4パーセントにしかいたりません。白人とメスティソ(白人と先住民の混血)が84%を占め、アフロ系の人びとが8%近くになります。ということは、コスタリカ人のほとんどが移民の子孫だということになります。移民は最初はスペインから到来し、その後イタリアやドイツなど、そのほかのヨーロッパ諸国からもやってきました。アフロ系の人びとの祖先は、植民地時代には、奴隷としてアフリカから連れてこられ、19世紀には、鉄道の建設のためにジャマイカからやってきました。そして、現在も世界各地、おもにニカラグアなどの近隣諸国から移民がやってきます。


国連の統計によると、2015年の時点で、国外からの移民の数は41万人、総人口のおよそ8パーセントでした。難民の数は、2016年の時点で四千人以上になります。でも国連難民高等弁務官事務所によると、2019年4月には、ニカラグアの政治危機と政府の弾圧を逃れてきたひとの人数だけで5万5千人にのぼっていました。ちなみに日本の移民の数は232万人で、総人口の2パーセント弱、難民の数はほんの2500人ちょっとです。コスタリカの、この移民、難民を歓迎する姿勢には、政治的、経済的な理由ももちろんあります。でもこの国の人びとの心の暖かさのあらわれだともいえるでしょう。(移民の数は, 国連のInternational Migration Report 2017 Highlights, Annex、難民の数はUNHCR Statistical Yearbook 2016, Table 1 より。)


先住民とアフロ系の人びと

コスタリカ、タラマンカ地方、先住民ブリブリ族の女の子
タラマンカ地方ブリブリ族の女の子(Axxis10写真

コスタリカの人びとは、自国の多様性をとうとび、弱い立場にあるひとに手を差しのべるやさしさを持つ国民です。ただ、最近までは、先住民、そして黒人とムラートをふくむアフロ系のひとびとは、コスタリカ社会の自己認識から疎外されていました。コスタリカの人びとの大半は、従来この国は「白人の国」、あるいは「ヨーロッパ人が築いた国」というふうに見ていました。このアイデンティティー意識の一環として、先住民やアフロ系の人びとに対する差別的な行為や態度も普通でした。たとえば、主にカリブ海側のリモン県に集中していたアフロ系の人びとは、1948年にようやく完全な市民権を得たのです。

先住民の人びとも、アフロ系の人びとも、白人やメスティソとくらべて、貧困率が高く、その他の経済的、社会的指標も追いつかない状況にあります。このふたつのグループのなかでも、先住民たちが、コスタリカ社会を構成するさまざまな民族のなかでいちばんまずしく、教育など生活を改善する機会にもっとも恵まれない人びとだといえます。

でもここ数十年の間に、差別の問題はまだまだ残っているとはいえ、徐々に変わってきています。先住民の人びとに関しては、1977年に「先住民法」が議会で採択されました。この法律は、各先住民コミュニティーの集団所有地を定め、これらの領土内でのある程度の自治権をみとめます。そして1993年に、コスタリカ議会は、さまざまな分野において先住民の権利を定めた、国際労働機関(ILO)の169号条約を批准しました(日本はまだ批准していません)。これらの権利を先住民の人びとが完全に行使できるようになるには、まだいろいろな障害がはだかっています。それでも、先住民たち自身、そして政府や議会の努力によって、少しずつ前進しています。

アフロ系のひとびとの大きな功績として、憲法の改正があげられます。2015年8月に、憲法第一条が、「コスタリカは、民主的で、自由な、かつ独立した、多民族、多文化共和国である」という風に改正されました。「多民族、多文化」という言葉が、アフロ系の人々の運動によって加えられることになったのです。これは、コスタリカ社会全体にとって、より多様なアイデンティティーの構築に向けての大きな歩みだといえるでしょう。

コスタリカ、リモン県のアフロ系の女の子
リモンの女の子(Sgt. Samuel R. Beyers写真)

(2019年5月16日)