慣れ親しんだ土地や家、家族や友人たちと別れるというのは自分が望んでする場合でも心の痛むことです。いやおうなしに愛する場所や人びとから引き離されるというのはどんなにつらいことでしょう。
今回は、生身の人間ではなく、映画のなかの人びとを紹介します。最近見た「Apego」(スペイン語で愛着、あるいは執着を意味する)というコスタリカ映画です。この国で作られている映画は数が少なくてあまり見る機会がないので、新しい作品が出たときはなるべく見るようにしています。それに、この映画は女性監督の作品で、チリからコスタリカに亡命してきた夫婦の家族についての物語だと新聞で読んで、興味をそそられました。
チリ―からコスタリカへ
ストーリーをざっとまとめると、次の通り。アナは1970年代に、ピノチェトの軍事政権を逃れるため、チリからコスタリカに亡命してきた、アンドレスとフリアの娘。離婚したシングルマザーで、二人の小さな娘を育てている。ある日、母のフリアが、フェースブックで再開したチリ―の旧友(男性)に会いに、ひとりでチリ―に帰ると言い出す。家族が止めるのも聞かずに彼女は旅立ってしまう。その後、父のアンドレスも行動がおかしくなり、ある日、家族に何も言わずに家から消え失せる。アナは、建築家としての仕事と母親業の両立に四苦八苦しながら、兄と弟、そしてもとの夫の助けもほどんどなしで、思いがけないドラマに立ち向かうことになる。
映画としては、亡命、移民といった大きなテーマを手掛けながら、深みが足りなくて、演技もいまいちかな、という気がしました。それでもストーリー自体は面白くて、いろいろ考えさせられました。まず「亡命」について。そしてもっと広く、理由が何にせよ、心ならず、自分が生まれ育った土地を離れざるを得なくなる、という現象についてです。国連難民高等弁務官事務所によると、2017年の終わりの時点で、家を追われた人びとの数は世界中で6850万人という史上最大の人数にのぼっています。そのうち国境を超えた難民は2540万。今年の4月の時点でニカラグアの政治的暴力や弾圧を逃れてコスタリカに来た人だけで5万5千人になります。
これらの難民たちの多くは、安全を求めながらも、大変な危険や苦難に直面し、命を落とす人も大勢います。それに比べると、アンドレスとフリアの場合は、コスタリカで平和で経済的にも余裕のある生活を築くことができ、幸運だといえるでしょう。アンドレスは大学の政治学の教授を引退して悠々自適、フリアは家事をお手伝いさんに任せて、体操の教室にいったり、家で太極拳をしたりと、まわりから見れば快適な生活です。
それでも、フリアは夫の政治活動のために、自分の仕事や家族を捨て、チリ―を去らなければならなかったことを、いまだに悔やんでいます。自分の祖国、そしてしあわせだった過去への執着、apego、を振り切れないでいます。でも家族はぜんぜん彼女のそういう思いを真に受けてくれません。アナも、「自分は家族のためにすべてを犠牲にした」という母を、「あら、でもそれはお母さんが望んだことじゃない」と、冷たく突き放します。夫は、「今のチリなんて、ブルジョアだらけでけったくそ悪い」と、相手にしません。
地中海でおぼれ死ぬシリアやアフリカの難民の苦難と比べると、フリアの悩みはささいなことに思えます、でも、ささいだからこそかえって、難民や亡命者の悲しみを身近に感じさせてくれます。
アンドレスの言い分も極端なようでも、本当はこんなような嘆きをあらわしているのでしょう。「俺や同志たちがアジェンデ政権下、祖国の改革にあれだけ情熱をそそいだあげく、国を追われた。でもピノチェトからようやく解放された今日、チリはただの資本主義国に成り下がってしまった。」革命家たちが夢見たチリ―への執着、apego、の叫びです。
フリアが、「家族のためにすべてを犠牲にした私の人生はなんだったのかしら」と自分に問いかけると同じように、アンドレスも、「俺の人生はなんだったんだ?」と問うています。悲しいことに、このふたつの問いかけはお互いすれ違ったままで映画は終わります。
国を追われるということ
1973年にピノチェトがクーデターを起こし、左翼のアジェンデ政権をくつがえしたあと、約二十万人のチリ人が軍政の弾圧を逃れて、中南米のあちこちの国々に亡命しました。チリの外務省によると、コスタリカには現在、チリ生まれの人が1306人、チリで生まれた人の子供が1160人、合わせて2466人在住しています。コスタリカは、このほかにも、ニカラグア、ベネズエラ、コロンビアなどから多くの亡命者や難民を受け入れています。
私は、国連での勤務を通じて、何人ものチリ―人亡命者に会い、いっしょに仕事をしたり、友人になる機会に恵まれました。でも恥ずかしいことに、自国を追われるということが、彼らにとってどんな経験で、何を意味したかということを面と向かって訊いてみたことが一度もありませんでした。彼らのほうも、もう何年も前のことなので、とくにこの課題に触れようとはしませんでした。こんな暗い話は聞きたくないだろうと思って話さなかったのかもしれません。
ピノチェト続投へ「ノー」が勝利し国民投票を描いた映画「NO」。とても面白くて感動的です。
ひとつ覚えているエピソードは、メキシコに亡命して、今はメキシコ・シティーの著名な大学で統計学の教授をしている友人から聞いたものです。彼はチリーでかなり大きなワインのコレクションを持っていて、いざ祖国を去ると決めたとき、大勢の友だちを家に招いて彼らにこう言いました。「このワインを持っていくつもりはないから、全部お前たちにやる。ただし、自分の家には持って帰らせない。全部ここで飲んでいけ。」そして3日間ほど飲んだくれのフィエスタが続いたそうです。この話をメキシコで聞いたときは、本人も面白おかしく話し、私も笑って聞いていました。でも、もう二度と祖国に帰れないかもしれない、そして家族や友人たちにもいつまた会えるかわからない、とわかっていながらのパーティーです。どのような悲しみを押し殺しながらみんなと笑ったり踊ったりしたのでしょう。
私自身、無理矢理自分の国を追われるという経験はもちろんありません。でも国連の仕事のために15回以上も、国から国へと転々としました。そして子供時代には、父が外交官であったため、何度か日本から外国へ、そしてまた日本へという引っ越しを繰り返しました。慣れ親しんだ土地や家、家族や友人たちと別れるというのは自分が望んでする場合でも心の痛むことです。いやおうなしに愛する場所や人びとから引き離されるというのはどんなにつらいことでしょう。
女性の役割
もう一つ考えさせられたのは、人間の、自分や他者の「役割」への執着です。とくにこの映画は、女性の役割に焦点をあてています。フリアは自分の、妻や母としての役割は、自分を犠牲にしても家族に尽くすことだと信じてきました。家族もそれが当たり前と思っています。アナも、キャリアを持ちながらも、結局は母の跡を追っています。娘たちのめんどうは彼女がほとんど見ていて、先夫は都合がいい時だけひきとりに来ます。学校で何か問題があれば、アナが対応し、先夫が気まぐれで娘たちに突然犬を買ってやれば彼女が引き取ることになります。そして、フリアが旅立ってしまったあとの家族のごたごたもぜんぶ彼女に降りかかってくるのです。
彼女たちの日々のいらだちや喜びに、私と同じように、多くの女性たちが自分や自分の母親を重ねて見ることだろうと思います。
映画は、主人公たちがそれぞれの夢や理想や役割に執着し、そのために苦しみ、そして最終的にはその執着心を全うする、あるいは振り切る過程を淡々と、ユーモアを交えて語っています。
コスタリカにいらっしゃる方は、6月5日まで、Cine Magalyで見られます。日本の方も、映画祭か何かで、そちらで上演されるようなら、移民の国コスタリカの今日を、アナの家族の物語を通じて垣間見るいい機会です。
是非鑑賞したい作品です。劇場公開するといいけど、コスタリカ映画はあまり上映してないです。ネットで見れるかもしれません。それにしても一本の映画からこれだけたくさんのことを引き出すなんて、ブロガーさんただものじゃないですよ。15回引っ越しお疲れ様でした。女性のほうがしっかりしてるのは、世界共通なんでしょうか。
ありがとうございます。そう、多分ラテンアメリカ映画祭か何かでもないと日本では上映されないでしょうね。「NO」はとてもいいですよ。これはまだご覧になっていなければAmazon Primeでストリーミングできると思います。女性がしっかりしてる、というのは、そうでないと誰も他にしっかりしてくれる人がいないという既成概念があるからじゃないでしょうか。私はぜんぜしっかりしてないけど、やっぱり子供のこととかペットのこととか食事の用意とか、英語でいう「Care Giving]に関係したことになるとどうしてもやるはめになりますね。でもこれも女の役割はこうあるべきだという観念への執着が女のほうにもあるからですよね。映画のお母さんは、それを「私はもういい!」といってしまったので、家族がしっちゃかめっちゃかになってしまうわけ。。。