
「 私はパレスチナ人であると同時に、コスタリカ人です。コスタリカの一番いいところは言論の自由です。だれであろうと、何でも好きなことをいう自由があります。そして、自分とちがった意見を尊重する習慣があります。たとえば仕事場で一度も「あなたは外国人だから」といわれたことはありませんでした。」
アブドゥルファタさんに出会ったのは、彼の末息子のキファが、私が国連で仕事をしているときに、国連開発計画の環境問題担当官だったからです。キファは、パレスチナと、俗語でコスタリカ人を意味する「ティコ」を合わせて、「ぼくはPalestico(パレスティコ)だ」といっていました。お父さんがパレスチナ生まれで、お母さんのフローラさんがコスタリカ人だからです。
アブドゥルファタさんは、長い間、サンホセのサンフアン・デ・ディオス国立病院に勤めた産婦人科医です。と同時に、コスタリカ初のモスクと、イスラム教文化センターの創設者のひとりでもあります。私はこの国に着任したとき、なるべくいろいろな分野のひとびとに会いたいと思って、キファに、お父さんに紹介してくれるように頼みました。すると、2,3日後に、アブドゥルファタさんから、自宅へ私と夫を夕食に招待したいという返事がきたのです。恐縮に思いながらも、喜んでうかがうと、ご夫婦が暖かく迎えてくれました。そして、夕食はアブドゥルファタさんの手作りのパレスチナ料理が山盛りのごちそうでした。
パレスチナを追われて
Abdulfatah Sasa (アブドゥルファタ・ササ)と言います。1940年にパレスチナのジャッファで生まれました。今はイスラエルのテルアビブの一部になっています。子供時代を、ユダヤ人たちとの戦争のさなかで過ごしました。1948年、私が七歳のとき、私の家族はユダヤ人テロリストたちに、着の身着のままで家から追い出されたんです。ジャッファから南のラムレ、今ベン・グリオン国際空港があるロッド、ヨルダン川西岸のラマラ、南部のヘブロンへと、どんどん追われて、結局ヨルダンのアマンに、難民としてたどりつきました。ロッドからラマラに行くために、家族の一部は歩いて山を越えました。飲み水も持っていくことができなくて、赤ん坊だった弟の尿を代わりに飲むような苦難でした。
父はアマンで金属鋳造工場で働き始めました。実はこの工場はもともと父がジャッファで立ち上げたものでした。でもほかの人に工場をとられてしまって、彼はただの従業員として働くことになったんです。アマンにたどり着いて二年後にようやく父と叔父ふたりが共同で土地を買って、それぞれ小さな家を建てました。私たちの家族は、ひと部屋に両親と子ども七人が寝ていましたよ。
父は決して子どもに工場を手伝わせようとはしませんでした。子ども全員に教育を受けさせたかったのです。私はスペインに勉強しに行きました。レバノンのベイルートから船であちこちの港に止まりながらバルセロナに着きました。そこからまずマドリードに行って、必死にスペイン語を学んだんです。4か月でなんとかしゃべれるようになって、北東部のサラゴサの大学の医学部にはいりました。サラゴサで勉強しているときに妻に出会って結婚したんです。私たちの五人の子どものうち、四人はスペインで生まれました。
コスタリカに最初に来たのは1973年の11月28日でした。当時はここに落ち着く気はなくて、しばらくここで経験をつんで、ヨルダンにもどるつもりでした。実際、リベリア、カルタゴ、そしてサンホセのサンフアン・デ・ディオス病院などで仕事をしながら専門的な訓練を受けて、1979年にアマンにもどったんです。でも経済状況が悪くて結局、一年後にコスタリカに帰ってきました。そして、サンフアン・デ・ディオス病院の産婦人科医の空席に応募して受かったんです。2006年までこの病院に務めて、そのあとも保険庁で、労働医療の仕事を2015年までつづけました。コスタリカ大学で30年以上アラビア語の教授もつとめましたよ。
コスタリカへ
コスタリカについては、妻や彼女のコスタリカ人の友だちから話を聞いていたので、それほど大きなカルチャーショックではありませんでした。でもひとつ驚いたのは、リベリアの病院で仕事をはじめて、hijo natural (イホ・ナトゥラル、私生児)という言葉を聞いたときです。イスラㇺ文化のなかでは、女性が結婚せずに子どもを産むというのは考えられないことです。この国に来て、若い女の子の妊婦をたくさん診ました。多くの場合は父親や、叔父が加害者です。12歳の女の子を診なくてはならなかったときはショックでした。しかも、2度目の帝王切開だったんです。

アラブ文化のなかでは、男性が女性に結婚を申し込みたいと思ったときは、まず自分の母親に相談します。すると母親がいろんな知り合いを通じてその女性について調べるんです。たとえば、だれかに朝早く彼女の家に行ってもらって、化粧をする前の顔を見てもらう。息が臭いかどうかまでチェックするんですよ。そして彼女の家族がどういう人たちか調べる。
でも私は妻と結婚して子どもが生まれてから両親に知らせました。問題はありませんでしたよ。私の両親は、品行方正で、悪い評判のない相手であればとくに注文はつけませんでしたから。フローラと結婚してもう54年になります。イスラム教では、結婚相手がイスラム教徒である必要はないんですが、フローラはカトリック教から、自分なりにイスラムに改宗したつもりでいます(笑)。自分なりというのは、たとえば彼女はラマダンの断食は守りますけど、一日に五回の礼拝はしません。私はちゃんとやっています。メッカにも三回お参りに行きましたよ。
フローラの家族からも反対はありませんでした。義母が、私たちの長男のジハードにカトリックの洗礼を受けさせては、というのを断ったにもかかわらずね。コスタリカの伝統的な食べ物に、タマル(とうもろこしの粉で作ったおまんじゅうの中にぶた肉と野菜を入れて蒸したもの)がありますね。フローラの両親の家に行くと、ぶた肉無しで作った、「アブドゥル風タマル」を作ってくれたものです。
産婦人科医になって、ひとを助けられることと、子どもがこの世に生まれて来る手伝いができることが喜びでした。私は帝王切開が得意で、医師によっては、二時間近くかかるところを15分で済ませるようになったんです。短い時間で手術が終われば、女性の体にも負担がかからないし、回復も早くなります。スペイン語で、帝王切開のことをセサリアと呼びますね。サンフアン・デ・ディオス病院では、私の苗字をもじって、「ササリア」というようになったんですよ。
神に導かれて
私にとって、人生に意義を与えるのは神への信仰です。日々の生活なかで、神が私たちをよい方向に導いてくれるんです。家族のためにも、国のためにも、よい行いをするように支えてくれます。そのおかげで私もいろいろなところに住みながらも、適応することができました。例えばコスタリカで、病院の同僚に食事に呼ばれると、ぶた肉やアルコールが出ます。でも私は文句を言ったりせず、ぶたは食べないで牛肉を食べて、アルコールには手を付けずに、コカ・コーラを飲みます。自分の信仰と良心に反さないように、よいところだけ受け入れるんです。
今までの人生を振り返って、充実感を感じます。よい家族に恵まれ、子ども達はみんな最高の教育を受けて、信仰を捨てることなく、社会的な地位も築くことができました。
私はパレスチナ人であると同時に、コスタリカ人です。コスタリカの一番いいところは言論の自由です。だれであろうと、何でも好きなことをいう自由があります。そして、自分とちがった意見を尊重する習慣があります。たとえば仕事場で一度も「あなたは外国人だから」といわれたことはありませんでした。
ここには本当の民主主義があります。自由な選挙があります。これはどのアラブ国にも存在しません。
日本についてはあまり知識がありませんが、第二次大戦で灰になった国を復興させた不屈の精神が思い浮かびます。コスタリカにはこの粘り強さが足りません。日本に学ぶべきです。
(インタビュー2018年1月9日)
まるで別世界に住んでいる人のようですが、語り口が柔らかで、とても身近に感じることができました。脱帽です。
ありがとうございます。田中さんのコメントいつも励みになります。