
「 コスタリカに来てよかったと思います。一生懸命はたらいて、やりたいことをやってきて、仕事の成果もあります。生徒たちはあちこちで活躍してますし、ぼくもいろんな国の人たちと友だちになれました。 」
八木さんに会ったのは、今年の7月の参議院選挙の投票をするために、サンホセの日本大使館を訪れたときです。名簿をチェックしたり、投票用紙を渡したりする日本人の係員が何人かいて、八木さんはそのうちのひとりでした。その一、二週間あと、コスタリカの日本人会が主催したバーベキュー大会でまた出会いました。ちょっと世話ばなしをしたところ、コスタリカにもう40年以上すんでいること、もともと海外青年協力隊の音楽の先生としてこの国に来たことなどを知りました。
コスタリカの「音楽革命に加わる」
1975年の5月に、青年海外協力隊員としてコスタリカに来ました。この国に来ることになったのは偶然です。音楽学校を卒業して、音楽専門の協力隊員の募集を見て、行ってみようかな、と思ったんです。コスタリカとエルサルバドルに空きがあったんですが、エルサルバドルは打楽器の先生を探していて、コスタリカはバイオリンの先生を求めていました。ぼくはバイオリニストなので、コスタリカになったわけです。青年海外協力隊では、これがはじめての音楽隊員の募集でした。
コスタリカについて来る前に知っていたのは、風光明媚で自然が豊かな国だということぐらいです。来てみると、クラシック音楽のレベルはかなりひくいものでした。でも1971年に、ギード・サエンス(Guido Saenz)という文化大臣が「音楽革命」を提唱したんです。その一環としてコスタリカ国立交響楽団を一新して、交響楽団付属の音楽学校を創設しました
このオーケストラは、その前はセミプロの楽団で、時計屋さんがひまなときに楽器を弾いたりしていて、アマチュアの域を出なかったんです。サエンスはこの人たちを全員解雇して、外国から若い才能のある音楽家を連れてきました。その中に私もバイオリニストとして加わったんです。そして午前中はオーケストラで演奏して、午後は音楽学校で教えていました。学校は国立校だったので無償で、楽器もただで生徒たちに貸しあたえていました。
協力隊員の任期は二年なんですが、ぼくはオーケストラと個人で契約して残ることにしました。仕事も気に入ってましたし、国全体に活気があったし、コスタリカ人の人間性も好きになっていたんです。それにこちらでは新聞に出たりしてずいぶんもてはやされていたんですよ。音楽の世界ではたいていみんなぼくの名前を知っていました。日本に帰ればその他大勢のなかにはいってしまいますからね。
ぼくは演奏家と教師と両方やりたかったんで、仕事はやりがいがありました。期待もされてたし。本当によくはたらきましたよ。朝から晩までオーケストラと音楽学校にいりびたりでした。
それにこっちの女性と結婚したんです。日本大使館ではたらいている大阪出身の友だちがいて、彼の奥さんがコスタリカ人の女性で、彼女に紹介されたんです。幼稚園の先生でした。
40年間この国のクラシック音楽のレベルアップに努力して、5年前に65歳で定年退職しました。定年は本当はないんですけど、目が弱くなってね。強い照明をあてられながら楽譜をよむっていうのは大変なんですよ。
今ではコスタリカ交響楽団は、ほとんどコスタリカ人でなりたっていて、中南米のなかでは五本の指にはいります。セントラル愛知交響楽団の名誉指揮者の小松長正さんが7年間コスタリカ交響楽団の指揮者をやりましたが、彼もレベルが高いといっていましたね。サエンス文化大臣の音楽革命は成果をあげたわけです。

学んだこと
ぼくがコスタリカに来た当時は、オーケストラには世界中から若い人が集まっていました。とてもインターナショナルな雰囲気で楽しかったです。いろんな考え方や子供の教え方を学んですごくいい経験でした。人生の糧になりましたね。音楽家としてものびたと思います。
音楽の教え方についてコスタリカでひとつ学んだのはコンシエンシア(conciencia)の大切さです。コンシエンシアというのは意識、または認識という意味ですが、要するに自分でいろいろ考えて学ぶということです。
日本で生まれた音楽教育法で、鈴木メソードが有名ですね。サエンス大臣もとてもこの方法に感銘を受けて私がこれを使って指導することを期待していました。鈴木メソードは要するに、子供が言葉を学ぶと同じように、音楽を聞かせて、それをまねて覚えさせるという方法です。5歳ぐらいまでは、すぐ弾けるようになるし、楽しいやり方です。でももう少し大きくなってからは、理論的な部分もふくめて、自分で考えて、認識して弾かないとのびません。こちらでは、伝統的な教育法ではありますが、そういう部分を重視しています。
鈴木先生自身、自分のメソードはプロを育てるためのものではないと言っていますよね。子供がハッピーに音楽をやるためだと。それももちろん大事なことです。
日本の音楽教育は情緒をとても重んじます。でも人間の情緒というのは教えるのはむずかしいですよね。こちらの音楽教育はもっと地に着いていて科学的で、テクニックに重きをおいています。
もうひとつコスタリカの教育法のいいところは総合的であることです。ぼくが子供のころバイオリンを習っていたときは、日曜日にひとりで先生のうちに行ってレッスンをして、せいぜい一年に一回発表会をするというやり方でした。ここでは、楽器の弾き方を習うだけでなく、理論やソルフェージュも学ぶし、土曜日にはアンサンブルやオーケストラでほかの生徒たちといっしょに演奏します。みんなでいっしょにやるからモチベーションも上がります。ぼくは中学から音楽専門校にはいるまでは仲間がいませんでした。いなかに住んでいましたしね。
コスタリカと日本
出身は宇治です。父は日産でサラリーマンをやっていました。ぼくは音楽がなんか知らんけど好きで、学校の先生にやってみてはどうかといわれました。本当はピアノをやりたかったんですけど、ピアノは高いんで、バイオリンにしたんです。近くのバイオリンの先生のところに教わりに行ってました。6歳のときにはじめたんですが、まわりには音楽をやっている子なんてあまりいませんでした。もう少し小さいころの音楽教育が行き届いていればもっと音楽家としてものびていたかもしれませんね。
コスタリカに来てよかったと思います。一生懸命はたらいて、やりたいことをやってきて、仕事の成果もあります。生徒たちはあちこちで活躍してますし、ぼくもいろんな国の人たちと友だちになれました。夫婦ふたりで築いた生活もありますし。娘が三人います。長女はこちらで医者をしていて、次女は日本で外資系の会社ではたらいているんです。末娘は私たち夫婦とすんでいますが、いずれ日本に行ってホテル業につくつもりでいます。
コスタリカのひとは踊るのがすきですね。こないだ結婚式にいったら、午後の4時ぐらいから式がはじまって、披露宴があって、食事が出て、あとは夜中すぎまで踊っていました。ぼくはごはんを食べてから帰りたかったんですけど、そうもいかないですしね。疲れました!としだからじゃなくて、若いころからこれは疲れました(笑)。ラテン文化のなごめないところです。
この国のいいところはのんびりしているところかな。気候もいいです。日本は疲れる国ですよね。でもコスタリカ国籍はとっていません。日本の国籍をなくしたくないのでね。日本には一年に一回は帰っています。あちらにふたり兄きがいますし、日本は好きです。人間形成が日本でできていますからね。それに大学を出るまでしかいなかったので、日本についてもっと知りたいんです。こちらでもNHKワールドをよく見てます。昔の風景がなつかしいですね。
ここにいて、自分が日本人だなあ、と思うのは、こちらのひとと話していて相手のことを考えるときです。相手を優先するんです。これは日本人のいいとこじゃないですか。それに、日本人として変にみられたくないですし。そのへん田舎もんなのかもしれないですねえ。
コスタリカから学べることは家族を大事にすることです。身内しか信用できないからかもしれないですけど。それからキリスト教精神からくる、困ったひとのために何かしてあげたいという気持ち。それが常にありますね。
国としてもようやってると思います。ぼくがここに来たときは本当にいなかだったけど、ずいぶん発展したし、いろんな考え方を先取りしてるし。CO2の廃止やエコ的な政策に関しては世界のトップにありますよね。
でも貧富の差が大きくなっただけ治安も悪くなってます。ぼくは10年前に強盗にはいられたことがあるんですよ。ピストルつきつけられて、しばられて。
コスタリカの平和主義はそのまま日本がまねることはできないと思います。ぼくは憲法九条を改正して、自衛隊を明記するだけでなく、どういうときに、どういうふうに動かすかはっきりさせるべきだと思います。もちろん戦争はいやです。でも尖閣諸島とか竹島の問題もありますし、抑止力は持たなくてはならないと思うんです。海外に住んでると保守的になるのかなあ(笑)。
(インタビュー2019年12月19日)