
「第一アリアス政権のもとで、革命をおこさなくても重要な改革を達成できる、ということを学びました」
レオナルド・ガルニエールの名前は、以前「コスタリカ、もうちょっとで成功するところの後進国」の著者として紹介しました。彼と知り合ったのは、1999年、私がエクアドルでユニセフの代表を務めているときでした。エクアドルは当時、 非常に厳しい経済危機の真っただ中にありました。貧困が急増し、子どもたちの健康や教育も大きな打撃を受けていました。これは経済政策と社会政策の両面から対処しなくてはならないと思い、そのための専門的なアドバイスをしてくれるコンサルタントをさがしていたのです。そんなときに、同僚がレオナルドをすすめてくれました。
彼は当時、コスタリカ大学で経済学の教授をつとめるかたわら、ユニセフなどの国際機関でコンサルタントのしごとをしていました。その前の年に、ホセ・マリア・フィゲレス政権のもとで企画大臣をつとめ終えたばかりでした。とても気さくで、出会って即座にざっくばらんに話し合えたのをおぼえています。経済学者としての専門知識と、政治と行政の実質的な経験から的確なアドバイスをしてくれました。
その後、レオナルドは、第二アリアス政権(2006-2010)とチンチーリャ政権(2010-2014)のもとで、教育大臣をつとめます。チンチーリャ政権は、汚職事件などのため非常に不人気でした。しかし、大統領と政府全体に対する信頼が低下しているなか、教育省だけは、高い信頼度をたもっていました。
現在はコスタリカ大学で再び経済学を教えていますが、詩や短編小説、それに子どもの本も書く多彩なひとです。
政治を通して現実を変える
オスカル・アリアスの最初の政権(1986-1990)ではじめて行政の仕事につきました。当時、企画大臣に任命されたオトン・ソリスに誘われて、次官のポストについたんです。国民解放党(Partido de Liberación Nacional – PLN。1951年に、内戦に勝利したホセ・フィゲレス等によって設立された)の政権でしたが、私は最初は党員ではありませんでした。人民戦線(Frente Popular)というマオイスト系の党にはいっていました。でもある日、大臣にPLNの集会に行くように頼まれました。コスタリカでは、大臣は政党活動に参加してはいけないことになっているのでね。PLNのイデオロギーは中道左派から中道右派までおよんでいます。でもこの集会で出会った人びとに共感したんです。政治を通じて現実を変えたいという希望を分かちあえる人たちだと感じました。
第一アリアス政権の功績のなかに、男女平等法があります。こういうテーマは通常、左翼と関連付けられますが、この法案は大統領府が直接だしたものでした。
もうひとつは中央アメリカの和平を達成したことです。当時アメリカのレーガン政権がニカラグアの反革命軍を支援し、和平への動きに反対していたなか、コスタリカがこれに立ち向かうのは大変なことでした。とくにそれまでコスタリカはアメリカととても近しい関係を保っていたことを考えるとね。80年代初期の経済危機からの回復に向けてもアメリカの支援がとても重要だったんです。政権のなかで働いている私たちでさえも、なかなか実際に戦争を終わらせることができるとは信じられませんでした。だからアリアス大統領のリーダーシップのもとで和平条約が調印されたときは本当に感激しました。
この政権のもとで、革命をおこさなくても重要な改革を達成できる、ということを学びました。
そのあと、また国立大学の教授のしごとにもどったのですが、ホセ・マリア・フィゲレスがPLNの大統領候補になったとき協力を求められ、支援することにしました。ホセ・マリアはアリアス政権の通商大臣と農業大臣をつとめたのでそのころからの友人でした。私は彼の政権のもとで企画大臣をつとめました。
この政権はいくつか重要な成果をあげました。ひとつは財政改革です。はじめて脱税を犯罪とする法案を通して、売上税を引き上げました。それ以来、今のアルバラード政権まで財政改革法案はいっさい議会を通すことができませんでした。もうひとつは、EBAISという地域レベルの保健所を通じて、すべての人びとに基礎的な保健医療サービスを提供するシステムを設立したことです。今ではあたりまえになっていますが、当時は画期的なことだったんです。「持続可能な開発」という概念を国の指針としてとりいれたのもこの政権でした。インテルの工場を誘致したのもね。これは外資をバナナなどの農産物からより付加価値のある活動にもっていくために重要な一歩でした。
でもこの政権はコミュニケーションがまったくなってなくて、とても不人気でした。政策に集中するあまり政治をおろそかにしていたんですね。みんな若くて傲慢だったこともあります。自分たちは正しいことをしているんだからいずれわかってもらえるはずだと思っていました。
バカなまちがいもおかしました。たとえば財政改革法案が議会を通った日に、嬉しさのあまり、大統領官邸でお祝いのパーティーをやったんです。これはたたかれました。国民に税金をもっと多く払わせようとしているのにパーティーをするなんて不謹慎にみえてあたりまえです。
この政権で私がなにをやったかと聞かれるとき、いつも「何にも」と答えるんです(笑)。私は企画大臣で、具体的な政策は各分野の省庁が進めるわけですから。でも重要な政策や戦略についての話し合いにはすべて参加して、いろいろな分野の政策の調整役だったので、本当に政府の中心で仕事をする経験でした。
教育はよい生き方を学ぶため

でも、第二アリアス政権とチンチーリャ政権のもとで教育大臣をつとめたときの方が、自分の仕事を通じて具体的な成果をあげた実感があります。
ひとつは中学と高校の就学率をあげたことです。農村部と都市部のあいだの格差も縮めることができました。
もうひとつは、教育を単に仕事を得るための手段とみるのではなく、よい生き方を学ぶプロセスだという考え方をとりいれたことです。たとえば多様な人びとと共に生きるための知識やものの見方の学習、性教育もふくめてね。芸術や音楽の鑑賞を奨励するために学生文化祭も開催しました。これは今でもつづいています。
三つ目は、カリキュラムと教授法の改革です。それまでは伝統にばかりとらわれて、硬直してしまっていました。教育の内容を新しくし、教え方ももっとアクティブなやり方にかえたのです。
そして最後に、これはチンチーリャ大統領の提案だったのですが、専門学校の就学率を二倍にふやしました。
これだけできたのは8年間大臣をつづけられたからです。
カリキュラムと教授法の改正はとてもむずかしい試みでした。先生たちがまともな訓練をうけていなかったからです。20年ぐらい前からほとんどの教員志望の若者が私立の大学を出るようになって、教育のレベルがひどいものなんです。教育省から規制しようにもそのための法律ができていなくてね。
教員を評価する、というと教員組合から大反対がおこるので、新しいカリキュラムの研修を受ける条件としてテストを受けさせました。すると、英語と数学では三分の一が科目の内容さえちゃんと把握していないことがわかりました。高校の卒業試験の質問に答えられないのです。そのうえ教授法も理解していません。今、ひとつ後悔があるとすれば、教員の質がどれほど大きな問題であるかはっきりわかっていないまま改革にとりかかったことです。でもごく最近ようやく、教育省が先生を雇う前に試験を受けさせる方針が採択されました。
無神論者は大統領になれない
大統領になりたいとは思いません。そのために払わなければならない代償が高すぎます。自分にとっても家族にとっても。まず家族といる時間がなくなってしまいます。大臣だったころもほとんど家にいませんでした。それから政治的な攻撃です。教育大臣を務めていたころもまったく根も葉もない不正の告発があって、娘が大学の教授やクラスメートから攻撃をうけるようなこともありました。大統領に立候補するとなったらこういう攻撃がますますエスカレートするでしょう。
それに自分の信念を正直に語れなくなります。私は無神論者です。コスタリカではおおやけにそれを認める政治家はぜったい大統領にはなれません。ほかにも著名な政治家で無神論者は何人もいると思いますが表だってはいいません。とにかく私はいまのコスタリカにとっては、あまりにも左よりです。そして社会的な課題、たとえばLGBTの権利などに関しては過激すぎるとみられています。
今の時点では、大統領を目指すよりは、オピニオンリーダーとしての影響力をフルに使って国のビジョンを変えていくほうがやりがいがありますし、楽しいです。
今のコスタリカは、コロナ禍のためとてもむずかしい状況にあります。政府は当初は適切な対処をしていましたが、その後まるで不在のような状態です。これからは予防接種が唯いつの望みだと思います。
コロナ危機にひとつ利点があるとすれば経済が破壊されてはいないということです。だからパンデミックがおさまれば回復できます。とくに観光客がまた以前のように来るようになれば、比較的早く復興すると思いたいですね。
心配なのは教育です。この一年間、学校にいけなかったために、これから開校しても戻ってこない子が大勢いるかもしれません。80年代の経済危機のときもそうでした。それにここ一年おくれた分をどう取りかえすか、です。私は国の教育委員会に参加していますが、最近その場で、これからの2年間はなるべく必要最小限の基礎的な知識を教えることに集中しよう、と決めました。問題は先生たちが実際これを実行できるかどうかです。
(次回に続く)
(インタビュー2021年2月2日)